見出し画像

第一話 その男"丸井"につき

 背中で泣く男がいた。
 名は丸井和彦、職業会社員、牡馬、人生未勝利。
 今日もロボットのように無機質な仕事を淡々とこなし帰路についていた。
 月初の金曜日というのに、この高槻市に活気と呼べるものはなく、疲れ果てたサラリーマンの溜息が街全体を包み込んでいた。

 「大阪のスイス」 吹田市、高槻市など北摂地域を総じて人はこう呼ぶ。東大阪市の隔離政策、西成暴動などで治安悪化に悩んだ大阪府が、特別治安向上指定地域に北摂エリアを選んで以来、犯罪は減少し続けている。
 何事も起こらず、ただただコピーペーストされた日々を繰り返すだけ。平和に魂を抜かれた街。   丸井はこの"平和"に心底辟易していた。

 片手にストロングゼロレモン500ml。舌に少し残るほろ苦さと残酷なアルコールが全身に染み渡る。肝臓は突然降ってきた不純物に驚いたが、脳は「まいど。いつもおおきにやで」と迎え入れる。
平和に魂を抜かれた高槻市において、これだけが足りない"何か"を満たしてくれるモノであると確信できた。
 丸井は少しだけ残ったストロングゼロをゴミ箱に捨てた。ゴミ箱には酒のゴミもタバコの空き箱もなく、ジュースの空き缶や食品の空き箱しかなかった。彼はふんっと鼻を鳴らしゴミ箱に特大の痰を吐き捨てた。

 駅前にある立ち飲み屋「釜ヶ崎」。高槻市で唯一喫煙可能な立ち飲み屋になって2年、丸井は週末になれば必ず訪れる。
「おっちゃん、ハイボールと唐揚げ。帰られへんくらい濃い目で頼むわ」
 店主は大富豪で"4"を渡された貧民のような顔でオーダーを取りまとめた。
 店内にある油とヤニにまみれたテレビでは、中日対阪神の野球中継が流れており、3-0で中日がリードしていた。
 「ここは青函トンネルちゃうどボケ」「素振りやったらお家でやっとけ」「矢野、中日から金もろとんけ」「トラッキー負けてんのに踊んな。保健所連れてくど」
阪神ファンの罵声が響く。その度に中日ファンの丸井は興奮し、ニヤっと笑い目の前に置かれたハイボールを一口飲む。
丸井は生粋の愛知人なので阪神と巨人からの勝利は、射精以上の快楽を感じれる唯一無二の瞬間だった。
ガソリンのような臭いのハイボールとやけに黒い唐揚げを仏前に添えてこのまま死んでもいいとまで思った。

「中日は岩瀬と荒木が消えてから死んだも同然や」

丸井の横にいた男がボソリと呟いた。こちらまで酒臭いのがわかる。
ボロボロの作業着、真っ黒の前歯は全て抜け落ち、タバコは"わかば"、カウンターに現金を投げ出している。
典型的な日雇い労働者だ。
丸井はほぼ原液のハイボールを喉に流し込み男を睨んだ。
 「おい、日雇い労働者、中日は死んでへんで。義務教育受けたことあんのか?空き缶潰して米食うて寝えや。」
丸井は敵対心を露わにした。
いつの日か中日ドラゴンズが日本を席巻する日がまたやってくると信じていたからだ。ドラゴンズは彼の心で燃え続ける永遠の炎であり、彼が生きていくための燃料でもあった。
 「兄ちゃん、中日ファンか。大阪ではな、阪神ファンと近鉄ファン以外は殺されるんやで。わかったら、黙ってその臭い酒飲んで消えろや」
抜け落ちた前歯の間から川上憲伸のストレート級の唾が突き刺さる。
丸井はぐにゃっと曲がったハイライトに火をつけ、再びハイボールを飲んだ。相変わらずここの酒はまずい。むしゃくしゃするような苦味が口全体に広がった。しかし今日の酒はいつもよりまずい。理由は明らかだった。この日雇い労働者のせいだ。丸井は気がつけばハイライトの箱をグシャッと握り潰していた。
 「宇賀さん、やめとき。今日は酔いすぎや。そろそろ帰りよ」
鬱陶しそうな店主がこの二者間に漂う緊張状態を察して声をかけた。
「ひっこんどけアホンダラ。ワレは黙って酒運んどいたらええんじゃ。勘定してくれ。気分悪いわ」
 "宇賀"は飲みかけの日本酒を一気に飲み干し、千円札を数枚投げつけた。
 店主は、数枚の千円札を丁寧に数えた後、カウンター越しから"宇賀"に声をかけた。
 「あと300円足らへんで、宇賀さん」

 「せっこい商売しとんなぁ、ほらこれでかまへんか?この守銭奴。黙って受けたらんかい。釣りはいらんで。恵まれない子供達にテキーラサンライズでもくれたれや」

宇賀は汚い机の上に500円玉を叩きつけて、ギロッと丸井を見た。
 「ところで兄ちゃん、名前なんて言うんや?俺に噛みつくなんかええ度胸しとんな。」
丸井は自分の名前を彼に告げた。
「丸井和彦?ふん、丸井のくせに吐き出す言葉はトゲあるのぉ。よっしゃ丸井よ、もう一軒付き合えや」
 宇賀はニヤっと笑い、くしゃくしゃの千円札を一枚店長に投げつけた。
「おい、これは丸井の分や。ガソリンみたいな酒仕入れて、アル中相手に仕事しとけや。」
 暖簾を乱暴にかき分け千鳥足で出口に向かっだと思えば、突然ピタッと足を止めて店主の方に振り返った。
 「あ、言い忘れてたけどここの唐揚げの色な、朝一のうんこと同じくらい黒いわ。皆んな食事中にごめんやで。まぁ、俺のうんこのかき揚げみたいなやつ食うて酒飲んどいてや」
宇賀はそう吐き捨てると店を出た。
丸井はそれを追いかけた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?