家終い
ふと通りかかった家の前に、トラックが横付けされて荷物をどんどん運び出していました。梱包しているわけではなく、とにかく積み出して山積みにしていきます。どうやら家の主の立ち合いもなさそうです。もしかして家終いかもしれません。
何年か前には、ガラガラ声の気のいいおばさんが、誰かと話をしながら台所で揚げ物をする音が聞こえてきました。そのおばさんは数年前に亡くなったと近所の人が話していました。名前も知らない人ですが、このように人知れず誰かが消えて行くのだなと思いました。
それからまた近くを通りかかると、時々テレビの音と誰かの咳をするのが聞こえました。ご主人が住んでいるのだなと、その時に気がつきます。そんな誰かが生活する音も久しく聞かないほど、自粛の日々は私の生活範囲を狭めていました。
荷物の運び出しは業者さんのようでした。もうこの家には住む人が居なくなったのでしょう。立ち合いもなく機械的に家財道具が運び出されていくようでした。
高校時代の古典の時間に習った徒然草だったか、忘れたけど、「綺麗に玉砂利を引いてしつらえた家も、時が過ぎれば住む人もなく荒れはてている。」こんな内容でしたか。美しい花壇のある家も、住む人が居なくなれば、庭の花は、たちまち枯れていきます。それ以来、美しい庭を眺め、花に心を癒されながら、同時に諸行無常を感じるのです。
改めて自分の部屋を見渡すと、家電、衣類、研究の資料、本、台所用品とどれも、私が居なくなれば廃棄処分になるようなものばかりです。常々娘には丸ごと廃棄するように伝えています。死んでしまえば、あれこれ悩むことはありません。しかし自分の意思があるうちに、さらに処分しておこうと思います。いつか来る「家終い」を意識して生きましょう。
なにせ娘は片付けが大の苦手なので、彼女の負担を減らしておきたいのです。
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