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あの頃二十歳の乙女は、五十路の熟女になりました。

ある日、本屋で気まぐれに歴史の本を眺めていました。そこに懐かしい名前を見つけました。短大時代の恩師でした。あまりの懐かしさにメールを送り、30年(以上)ぶりに短大時代の恩師に会うことになりました。せっかくなので、友人に声をかけてみました。

「社長」
あのころ「社長」というあだ名の友人は、家族で会社を経営していて、当時は「私はまだ専務や〜」と訂正していました。その後、家業を引き継ぎ、本物の社長になりました。

彼女は高校時代からの友人だけど、家業の繁忙期になったら、学校で人手をスカウトして歩いていました。アルバイトに行くと、クラスの友だち、クラブの友だち、同じ沿線の知り合いと、見知った顔ばかりでした。後々、娘も大学時代にバイトに行っていました。

先生に会いに行こうと誘いましたが、「会議があるからいけない。」といかにも社長らしい理由で行けないと返事が来ました。まあ商売繁盛で多忙なのはよいことです。

現在は社長の貫禄と自信に満ちています。高校時代から夜中まで家業を手伝ってきた人です。まさに彼女の歴史は会社の歴史です。いろいろ苦労もあったと思うけど、先生には本物の社長になったよって報告しておくね。

「Oさん」
ダメでもともとで神奈川県に住む友人Oさんに声をかけてみました。20年ぶりに電話で話、懐かしい話で盛り上がりました。

「わたし昔からぼーっと生きてきたけど、いまでもぼーっと生きてるよ。いつか熟女になってみたいと思ってたけど、1つか2つ飛び越えて、ボケぎみのおばあさんやわ。うふふふ」

彼女は戦前、戦後の映画に詳しくて、本当は戦前生まれではないかとの疑惑があった人です。いつもぼんやり、いやおっとりとして、おそらくモンペが似合うだろうし、まさに生まれた時代を間違えたような人でした。

ある時、彼女からおもしろい映画があるとビデオテープを手渡されて、再生したら「次郎長三国志」とかいう白黒のチャンバラ映画でした。バブル期とは思えないほど、オススメのツボがズレまくっていましたが、意外にも映画は面白かったし、東千代之介という絶世のイケメンを知りました。そのユニークな趣味と個性は、噛めば噛むほど味が出て、スルメみたいな友人でした。。

そんなオモロい彼女が、結婚して遠くに行ったのは寂しかったです。残念ながら参加できません。

「わたし」                                私の短大時代はちょうど、男女雇用機会均等法の時代でした。私も時代の空気の影響か「一生働きたい!」という奇妙な勢いがありました。働き続けるのなら資格を取ろうと、短大2年の時に、アルバイトで貯めたお金で、予備校に通い看護学校に進学したという、変わり種でした。

資格があれば一生働けるなんて簡単ではありませんでした。両親も働いていたので、応援は難しかったし、子どもが病気をするたびに、交代で有給をとり面倒をみてきました。障害のある息子が生まれて、働くことがますます難しくなりました。とどめに夫が亡くなり、私は家に入りました。

昔の私を知る人は、私が引きこもっていることに驚き、いつ復帰するの?今度か何するの?と言ってくれますが、ご期待に添えず今もダラダラと暮らしています。 

「先生」                                 先生は学科で一番お若い人でした。温和な性格と熱心な指導で、学生の中には、キャーキャー黄色い声をあげる人もいました。私の指導の先生と研究室が同室だったので、自然とみんなで仲良くしていました。

あれから何人かの先生はお亡くなりになったり、定年退職されたりしました。当時の学生たちもみな忙しく、社長やOさんを除いて、消息を知ることもありません。

仕方がないから1人で先生を訪ねます。卒業式以来の再会です。あの頃20歳の乙女は、一気に50歳をすぎた熟女になりました。ですので卒業アルバムを持参して、本人確認をしようと思います。念の為先生には、あまりの変貌しているので、くれぐれも心臓に負荷がかかりませんことを祈っておりますと伝えておきました。

すると先生から「私もすごいお爺さんになっています。」と返事がありました。 そうか同じように年をとっているんだね。おあいこです。もう心配はありません。あとは会うだけです。

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