鏡崎やおとの境界線、備忘録日記

私はどこまで鏡崎やおとして生きていいのか分からない
鏡崎やおは100%私じゃない、私だけど。
私の何%かが鏡崎やお。
境界線なんて引けない、引いてしまえばそこが鏡崎やおとの完全な乖離になってしまうから。

鏡崎やおであるという事は現実逃避でもあるというのに私は、鏡崎やおという存在からも逃げたくて逃げたくてたまらない。

始まりは終わりなんだ。
鏡崎やおが始まれば鏡崎やおは終わっていく。
忘れていく。
本当は鏡崎やおなんて存在しない方がよっぽど楽だったかもしれない、そんな事をずっと考えている。

行かないでほしい。
私をもうひとりにしないで、いやずっとひとりなんだけど。
どういう事だろう、自分でも分からないけど文字を消すボタンを極力押さずに書いているから、これが本物の感情だ。



きっとこんな感情になっているのは、2021年になったから。私は平成が終わる時もずっと落ち込んでいたし、何よりも2月は天使あまの誕生日であり、彼女ではなく天使あまが終わりを迎えた日だった。



好きな人間達は私を置いて死んでいく。その人間達と私はずっと生きたかった、自分勝手すぎるよな。救いも出来なかったくせに。

その人間達を置いて私は新しい時代を生きなければいけない。
死ぬ気もないのに平成が終わる日も今年になってからも、ずっと自傷行為ばかりして死ぬ真似をしている。多分こうやってたら早く死ねるだろう、なんて気持ちもあるかもしれない。
本当はこんな事辞めたいんだけど、馬鹿みたいだけど辞められない、いつか死ぬ日を夢見ている。

でも死んでしまえば好きな人間達の事も考えられなくなる、何も紡げなくなる、それが嫌でたまらない。
結局死ぬ勇気なんてこれっぽっちもないんだ。
死ぬ真似をした所で私の頭は馬鹿になっていくだけなのも分かっているのに、哀れだな。

神様なんて存在しない、天国なんて存在しないのに。
あの子が前世でも今世でも来世でも一緒だよなんて言うから、早く死にたいし生きていたい。

死んだら天国なんかじゃなくてきさらぎ駅に行きたい。きっとあの子はきさらぎ駅で、永遠の夏の中で鈴を持って私を待っている、ずっと2人で子どものままで今度はいようよ、あの時一緒に生きてやれなくてごめん、今度は間違えないからさ、一緒に生きてくれないかって泣きながらでもいいから伝えたい。

ずっとそんな事を考えて今年は生きている、本当に生きていけるのかすら分からないけどどうせ私は明日も息をしている。


そしていつかこの感情すらも忘れてしまう日が来るのかもしれない。

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