郷土の歴史や文化を学ぶことは、必ずしも郷土愛を育むのか。
「当事者意識の欠如」
僕が自分自身の住んでいる地域の歴史や文化について学ぶときに、常に自分の中にあるなんともいえないよそよそしさ。そんな感覚を敢えて言語化するのならば、この言葉が最もしっくりくるような気がする。
「郷土愛」ってなんだろう。自分の場合、どれだけ郷土の歴史を勉強しても、いろんな土地を訪れてみても、内側から来る、自分の地域に対する愛着というものがほとんどないのだ。たまたま今自分自身が住んでいる地域が、新潟県の中越地域で、歴史を学ぶにあたって、資料や現場などにアクセスしやすいから郷土の歴史を学んでいる。この物理的な制約は大きいと思う。
もちろん、誰か自分の住んでいる地域についての歴史や文化を学ぼうと思ったとき、その背景は様々で、ある人にとっては、一族の歴史を辿る延長線上で郷土の歴史を学び始める人もいるだろう。
幼少時の自分の、郷土の歴史に対する問題意識も、かつては自分の祖先について調べることから始まっているので、それについては反駁の余地はないように思う。ただ、その場合、きっかけになっているのは、「郷土に対する愛着」ではなくて、「家族(もしくは一族)に対する愛着」ということになるだろう。
あくまで自分にとって、ではあるが、自分にとって郷土の歴史を学ぶことと郷土愛は、必ずしもつながっていないように思う。
自分にとって、郷土の歴史を学ぶということは、それは他地域から見た新潟の歴史であり、自分の場合、京都や奈良からみた新潟の歴史、なんだと思う。そういう意味もあって、自分にとっては「郷土史」というよりも「地域史」といったほうが、なんとなくしっくりくる。
では、「郷土愛」と「郷土の歴史や文化を学ぶこと」は、全く別物で切り離して考える必要があるのか、というと必ずしもそういうものでもないらしい。
ある程度は「その郷土に対する愛着」(それを文字通り「郷土愛」と呼ぶのならば)がなければ、そもそも長い時間かけて、その土地の歴史や文化を学ぼうなんていう態度にならないと思うし、郷土に対する愛着をなくして、長くその土地のことを学び続けることはできないだろう。
このように考えたとき、郷土の歴史や文化の勉強は、最低限、その土地に対する愛着がないとできないけれど、郷土の勉強を長く続けたからと言って必ずしも郷土愛が育まれるわけではないということがいえるのではないか。
いずれにせよ、底の浅い学識の上に、徒に自分の住んでいる土地の歴史や文化だけの知識を蓄えて、自分の住んでいる地域の特殊性や優位性だけを見るような視点に陥ってしまうことだけはやめよう。
そんな底の浅い「おらが村さ」的な文化史観は、今の時代そぐわないし、そういう見方をしている限り、若い人たちに郷土の歴史や文化を学ぶことからそっぽを向けさせるだけである。これの規模が国家レベルとして大きくなったのが、偏ったナショナリズムだと思うし、「偏ったローカリズム」とでも名付けようか。
その行きつくところは、自文化中心主義であり、自民族中心主義であると思う。
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