金子國義画伯インタビュー

耽美的な作風で知られる画家の金子國義さんが、2015年3月16日の午後、虚血性心不全のため都内の自宅で亡くなった。
78歳だった。

じつは私の生まれて初めてのインタビュイーは金子画伯。
故人のご冥福をお祈りして、私の生まれて初めてのインタビュー記事をお蔵出ししようと思う。1995年のものだ。

この頃私は、仲間とともに『路上』というミニコミ誌、今でいう「ジン(ZINE)」をつくっていた。
金子さんへのインタビューはこの雑誌の記事で、個展会場にいた金子さん本人にインタビューを申し込んだのだ。怖いもの知らずだったな〜。
取材当日、めちゃくちゃ緊張したことを覚えている。

15年ぶりに読み返したら、金子さんのことを「金子氏」だなんて書いていて、すごく偉そうだと感じた。若さ故の馬鹿さだ。

これを書いた当時は、まだボールペンで手書きしていたはず。
完全なド素人で、すごく苦労して書いたのでよく覚えている。

ちなみに金子さんは役者として唐十郎の「状況劇場」に参加していた時期があり、その関係で土方巽とも面識があったようだ(たしかどこかで金子さんによる土方評を読んだ気がする)。

えらくスタイリッシュな方だったが、髪がカツラだったというのはほとんど知られていない事実じゃないかな(亡くなられたので書いてしまったが……)

◆ ◆ ◆

インタビュアー D:檀原照和 N:中西義久
 文  :檀原照和
 写真 :中西義久        

金子國義 KANEKO KUNIYOSI
1936年生まれ。実家は織物業を営む。日大芸術学部卒。
1967年、「花咲く乙女たち」というタイトルで銀座青木画廊にて個展デビュー    

主な作品集---「アリスの画廊」、「青空」、写真集「VAMP」
他に版画やドローイングなど多数。 

 金子國義という画家をご存じだろうか?人呼んで「エロスの画家」。
 彼の描く絵は一種独特の雰囲気を持っている。宗教画を思わせるまなざしとそれに相反するテーマ「エロス」のコントラスト。絵柄がポップだというのも見逃せない点だ。とにかく僕にとって気になる存在であった。
 その金子氏本人に一月下旬、会ってしまった。
 その場でインタビューの約束を取りつけ、数日後、氏のアトリエで念願の取材を行った。取材時間は2時間弱だった。

◆ ◆ ◆

 金子氏が興味を持っているもの、常に美しいと思っているものは、意外と古くさい。
(本当に意外だった)茶の湯、懐石料理、歌舞伎、そしてクラッシックバレエ。特にバレエの影響は大きいらしい。

「一時バレエをやったことがあるんですが(1951年、氏が15歳の頃)、そのときのバレエのメイクに惹かれて。当時のバレエの映画や写真集を見ると、センスが特別なんだよね、バレエの世界は。映画と違ってナチュラルでなくてオーバーで。それで舞台の美術とかバレエの美術とか、メイクも頼まれてやったことがあるんですよ」

「古典的なもの」や「オーソドックスなものの中から新しいものを見つけるのが好き」なので、本誌の斜めに組んだ字は好きではないそうだ。(注:「路上」のレイアウトは巻頭から巻末まで右肩上がりなんです)

「いいものっていうのは永遠性があるじゃないですか。前衛的なもので残っていくものもあるけれど、流れの中で、いいものっていうのはあまり変わらない。
 僕は好みが全然変わってないんですよ。だから何年か前に会った友達が、”まだこの写真飾ってあるの。これはすごいね。”っていうんだけど、”別に”って。そのまま飾ってあるんですよ」

青年時代

 オーソドックスなものを愛する金子氏ではあるが、前衛演劇の状況劇場(*1)に役者兼舞台美術家として参加していた。(出演作は「ジョン・シルバー」及び「ジョン・シルバー望郷編」)
 そんな氏の青年時代を語っていただこう。

「僕は日芸の芸術学部にいっていたけど、学校がおもしろくなくて。歌舞伎が好きだったんで役者にも憧れていたのね。たまたま舞台美術の先生(長坂元弘。歌舞伎界で役者の神様と呼ばれた六代目菊五郎の弟子)の所へいったら、その先生がセンスが良くって。日本の古典の本当に良いところ...歌舞伎とか新派とか芸者衆の東踊りとか...それが僕にはすごく新鮮だったのね。それがまた三島由紀夫の「橋づくし」(新作歌舞伎)なんかをやるわけですよ。それが60年くらい」

 1960年、「ポツポツ新しいものが出てきたので」4年ほど手を染めた舞台装置をやめる。その後四ッ谷に住んで”エネルギーの塊”になっていた頃、四谷シモン(*2)や唐十郎、澁澤龍彦(*3)ら”とんでもない”人々と知り合う。

「それから、遊び人になっちゃったわけ。ずっとその頃はムゲン(*4)とか、ディスコブーム(*5)だったんですよ。そこでいろいろな人と知り合いになるじゃない。新進で出てきた人が多かったけどね」

 ディスコには顔がキレイで踊りもうまい友達を集めていったので、いつも目立っていたという。
 ちなみに氏のすきな音楽はモータウン系のソウルや40年代のビックバンド(トミー・ドーシー(*6)やシナトラ)だそうだ。

「今デザイナーになっているイッセイ(三宅)さんとか菊地武雄さんとか同年代ですからね。僕、無名の頃のことみんな知っているから。イッセイさんなんかスケッチブック持ってね、”こういうのどう?ジバンシーの所へいきたいんだけど”って。篠山紀信だってそうでしょ。
 横尾さんなんかもそうですよね。僕の絵を見てイラストレーター廃業宣言しちゃった時代があったんですよ。その頃、高橋睦郎(むつお*7)さんと知り合ったんだけど、(彼は)僕がどこに住んで何をしている人かも知らなかった。たまたま絵をもってって(高橋さんの家に)置いといたら、横尾さんがそれを見て”この絵を描いた人に会いたい”って言ったんですって。それから(金子氏の家が分かったと)横尾さんに連絡があったんだけど、”部屋を見て会ったら描けなくなるから”って。そう書いてありますよ、『アリスの画廊』に」

デビューの経緯

 その当時の金子氏の絵は、「へたくそで描けなかった」のでプリミティブな感じものだった。66年に澁澤氏が画廊の主人を連れてきてくれたのだが、澁澤氏が「いい」と言うのに主人は首を捻った。

「で、もう一年描いてみたらどうかって話になって。そのとき澁澤さんに”等身大の絵を描いてくれ”ってお金をいただいたんですよ。・・・買ってくれたんですよ。澁澤さんとこってプレゼントが多いじゃないですか。僕の絵だけですよ、買ってくれたのは。高い値でね。でも等身大の絵を描いてくれって言われなかったら、もしかしたら今の自分はなかったかも知れないね。部屋飾るために小っちゃいのばかり描いていたから・・・。それで終わっちゃったかも知れない。
 それでね、展覧会デビューする前に、ポーリーヌ・レアージュっていう作家の『O嬢の物語』・・・映画にもなっていますよね・・・”O嬢の挿絵を描いてくれ”と澁澤さんに頼まれましてね。一枚出来上がっては持っていってね。澁澤さんのところに。また描いては持ってって。すごい喜んでましたね。出来上がる度ごとに」

「僕、何になろうって言うのがないんですよ」

 D:最近出版された写真集(注:"VAMP "のこと)のことをお伺いしたいのですが。
 構想はいつ頃からあったのでしょうか?
金子:「21プリンツ」(版画雑誌。写真も扱う)で僕の特集があって、写真が巻頭になっちゃて。そのとき写真が初めて印刷物になった。
 この部屋を見ればわかるように、シュール系の絵描きさんの画集はありますけど、大体、写真集ですよね。他の人の絵を見るよりも、写真の方が今おもしろいです。
 N:絵のもとには写真をお使いになるのですか?
金子:今ちょっと見せたんですけど、メイキングするときにポラロイドで撮っていて、モデルさんが帰っちゃった後それを使って仕上げていく。特に込み入ったポーズのときに。
 D:そのときモデルさんはメイクをされているのですか?
金子:そのときはポーズだけ。
 D: モデルさんはどうやって選んでいるのでしょうか?
金子:モデルさんはですね、だいたい知り合い系統。
 あの写真集の娘は、たまたまウチにいたアシスタントの子が偶然見つけて紹介しようと思っていたんですって。でも偶然僕が先に見つけて友達になっちゃったんですよ。それでアシスタントの子が何とかって言ったら、カンでピピって。やっぱりあの娘だってことになって。
 N:彼女は何をしていたんですか?
金子:エーとね、いや、何もしていない。ただの遊び人。
D&N:(笑)
 D:画家でいらっしゃいますけど、写真家になろうと思ったことはなかったのでしょうか?
金子:いや。僕、何になろうというのがないんですよ。目的がない。(笑)とりあえず、こうなっちゃった、というので来てるから。
 D:では気がむけば絵を描くし、オブジェをつくりたくなったらオブジェをつくるという感じでしょうか?
金子:そう。・・・人形とか立体のものをつくりたければ作るしね。手芸とか、自分も嫌いな系統のものでなければ、手仕事でできるもんだったら。だからヘアメイクも全部自分でやっちゃうし。
 もともとファッションは意外と好きだったんですよ。僕が若いときは50年代のモードが一番いいときで、そのまんま原体験で入ってきてるから。ヘア、頭の格好でも何でも。
 N:写真家は具体的にどういう方が好きなんですか?
金子:最初に好きになったのは「ハーパス・バザー」っていう本を「ヴォーグ」と一緒に買ってて、リチャード・アヴェドンの写真を見て、きれいな人を撮るんでそれに近い絵を描きたいな、と。今も変わらないですけどね。
 で、これからも写真を撮っていくんですけど、映画も撮りたいと思ってるんですけどね。ストーリーがあるものっていうか、文章を考えるのも好きだから・・・。(注:金子氏は絵本も出している。)
 この間、中沢新一とシモンと僕とでスパイラルで話をすることがあったのね。どんなのが好きだっていうから、「シチュエイションとしてアラビアの王女様がいて、女奴隷二人と三人で捕らわれていて「誰が王女だ?」って言ったときに、女奴隷の一人が「私が王女です」って言って、王女様も「私が王女です」って言う。その設定が好きだっていったら大笑いしたんだよね。

 ブニュエルの「昼顔」がお気に入りで、最近のものでは「ポンヌフの恋人」(レオス・カラックス監督作品)がお好きだそうである。それからメロドラマもお好きらしい。

金子:コクトーなんかもね、映画撮ってるじゃないですか。頭の中で考えてるんですよ。あれもしたい、これもしたいってね。
 N:コクトーがお好きなんですか?
金子:コクトーの「恐るべき子供たち」には相当影響されましたね。
 D:だから姉弟が写真集に出てくるんですね。
金子:そうですね。「恐るべき子供たち」の中の好きな場面で、汽車で旅をする場面があるんですよ。弟の寝顔見ながらお姉さんが欲情して。そのとき汽笛が鳴るんですけどね、そのとき何度もあれするっていう、近親相姦的な、ああいうものに惹かれる。時代も良かったんでしょうね。

◆ ◆ ◆

「恐るべき子供たち」のような映画を撮りたいという。もちろんその映画には「エロス」的な要素が欠かせない。

 N:エロティックに感じるものは個人差があると思いますが、金子さんの中でこだわるところは?
金子:国宝級のものから始まって、そういうラインに近いもの、”エロス”っていうのかな。
 たとえばハンス・ベルメール(*8)の人形とか、絵とか、ドローイング、版画とかあるじゃないですか。決してワイセツではないし、ある程度次元は高いし。いちばん僕が大切にしている部分なんだけど。エロティックな絵でも、神々しく見えるものをね、描いていきたいと思っているんだ。これからも。だから結局ね、”神”っていうものを意識し始めるんだよね。

ここから先は精神世界と芸術との接点の話題になっていく。

 N:最近思うことは、究極のものが存在して、そこに近づいていくための表現が芸術じゃないかと思うんですけど。
金子:そりゃそうだよね。
 N:そこに到達するための道のりであって、仏像などが芸術としてすぐれているのは、それにより近いからだと思うんです。
金子:うちの父が描いたその絵なんだけど、みんな感動して帰るんですけどね。昨日女の子が来て、地震が来たら何をもって逃げるか、という話になって、「あのお父様の絵じゃないですか」と言われたときにドキッとした。
 N:絵を描かれていた方なんですか?
金子:いや、素人で年取ってから描きはじめたんだけど、信仰心が凄くてね。うちの父が死んだときに、「この方は本物が見たくてあちらに行っちゃったんですよ」なんてよく当たる占い師が言う。仏像ばっかり描いてたから本物が見たくなったのか。おもしろい話だなっていう。
 僕はそういうんじゃないんですけどね、うちの家族が好きで。またその前の日の朝まで(父親が)描いていた十一面観音がすごくいいんですよ。未完なんですけどね、すごくいい顔してるの。もう素人が描いたとは思えないくらい。入ってるんですよ。自分で描いてるんじゃなくて。そういう一瞬っていうのが来るときがあるんですよ、たまに。そういうときは感動して涙が出るんですよ。そのときは父親が来てるんじゃないかっていう気配がするときがあるのね。くさい話ですけどね。
 (しばらく間をおいてから)
 だいぶ前、真夏の暑いとき頭からガーッとシャワーを浴びてた。そのとき襖くらいの大きさで来迎してくるのが見えた。僕よく国立博物館行くんですよ。来迎図って意外と好きで・・・それを描いたらどうかっていうのがパッと来たんですよ、頭の中に。
 それでモデルを使って描いたら、モデルの子が「先生、それ日本神だね」っていうから「ハッ」と思った。西洋人描いてたんですよ。男が水に寝そべってて、女の子がふたり、ビーナスがふたり立ってる絵を描こうと思ってた。はっと見たら、日光菩薩と月光菩薩が来迎してる絵を描いてた。知らないうちに神懸かってるっていうのかな。そういうのがまた来ないかなと思いながら描いている。(笑)

“型”の重要性について

 金子氏の周りには若いお弟子さんが何人もいる。氏のもとから巣立ち、成功したものも多い。

 D:四谷にあるボンテージショップの「アズロ」(*9)の経営者の方(山崎ユミ)が昔金子さんの許で・・・
金子:助手をしていた。
 D:ええ。
金子:家に住み込んでいましたよ。いろいろ教えますよ、ちゃんとした作法を。そういうことをふまえた上で自由にするんだったらいいですよ。一本筋が通ってないと、外したときにタガが外れたみたいに全部だめになっちゃうっていうのかな。

氏が教える行儀作法の基本は茶道から来ているそうだが、若いころ弟子入りした長坂元弘氏の許での体験がもとになっていると思われる。

「そういうものが出来てれば、どんな風に外しても出来るわけなんですよ。だから若い人にはさ、古典のいいところを見なさい、とかさ、「どういう勉強をしたらいいんですか」と言うから「国宝を見なさい」とか言う。

金子氏自身、古典、特に日本の伝統美に対する造詣が深く、愛読書は谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」(*10)だそうである。

インタヴュー後、アトリエで制作中の作品を見せていただいた。
アトリエや応接室を含めて家全体がごみごみしていたが、その雑然さも含めて実に決まった空間だった。紙面の都合で氏の自宅の様子をお伝えできないのが残念だ。記事にする過程で編集してしまった部分も惜しまれる。だが、これはその場に居合わせたものならではのうれしい悩みだ。

*註:この記事は1996年発売の『路上』vol.9に掲載されたものだが、インタビュー自体は1995年に行われている。

●註釈

1 状況劇場

 主催、唐十郎。赤い特設テントで公演をしたので「紅テント」とよばれた。62年、「特権的肉体論」を掲げ反新劇を旗印に結成。87年解散。

2 四谷シモン

 1944~。本名小林兼光。人形作家、俳優。10歳のころから人形を作り婦人雑誌のコンクールにたびたび入選。初期の作品はベルメールの影響をうけ「本物の少女よりエロティック」といわれる等身大の人形などを作成。78年原宿に人形学校「エコール・ド・シモン」を開く。俳優として舞台、映画などに出演。かつて金子國義とともに女形役者として状況劇場の舞台に立った。

3 澁澤龍彦

 1928~87。フランス文学者にして異端文学の紹介者。幻想文学作家でもある。59年に出版したサドの「悪徳の栄え」の翻訳で61年、裁判の被告となる。

4 ムゲン

 60年代を代表する日本初の本格的ディスコ。赤坂に位置し、日本中のセレブリティー(三島、小沢征爾、コシノ・ジュンコ、ソニーの盛田会長!などなど)が集まった。86年閉店。山田詠美も通ったという(笑)

5 ディスコブーム

 5年間続いた。

6 トミー・ドーシー

 1905~56。アメリカ。ジャズ・トロンボーン奏者、指揮者。

7 高橋睦郎

 1937~。45年頃から詩作を始める。詩集「王国の構造」、編著「エロスの詩集」、評論「詩人の血」など。

8 ハンス・ベルメール

 1902~75。ポーランド。裸の少女が異常にデフォルメされたり、異なる間接同士が非現実的につながるなどした深層心理を露骨に対象化した立体や、解剖学的精妙さをもつデッサン、エッチング、挿絵などを制作した。

9 アズロ

 A.Z.Z.L.O。「フェティッシュ」、「ボンテージ」といった言葉を世に知らしめたお店。日本のフェティッシュシーンの中心的存在。現在は南青山に移転。

10 陰翳礼讃

 日本の伝統美の本質を解き明かした随筆。

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