誰かに見られることが約束されている幸福

私は卒業した大学の近くに住んでいる。卒業してから20年以上経過している。ずっと近くに住んでいた訳ではないし、学生時代は実家から通っていた。二年前の引越しで、本当は隣の駅に住みたかったのだが、良い物件が無く、結果的に大学近くに住むことになった。一人暮らしの私は、日々、学生に囲まれながら定食屋や中華料理屋で昼食や夕食を済ませる。この20年間は色々あったはずだが、また昔に戻ってきたように錯覚してしまいそうだ。いや、そんなはずはない。そもそも大学時代に学校内にほとんど友人がいなかった自分は学校の近くで飯を食べることも滅多になかった。したがって、実際にはほとんど初体験である。隣のテーブルから漏れ聞こえる学生達の会話は、サークルの何らかの催し物の準備の話、誰と誰が付き合った、別れたという話、カップル同士での旅行のプランニングの話、ゼミの発表の準備、就活の話など多岐に渡るが、どれも自分とは無縁の話で心を掻き乱されるようなことはない。

今夜は駅の近くにある月3回くらいの頻度で訪れるチェーン系定食屋で茄子の辛味噌炒めにサバの塩焼きの半身が付いた定食を食べている。この店では毎回店員に味噌汁とご飯がおかわりが自由であるという説明を受けるが、実際におかわりをしたことはない。学生で溢れるこの店で、中年男性が味噌汁やご飯をおかわりをするのもどうかと自意識が邪魔をする。というか、本音をいえば単に健康のためという至極中年男性らしい理由からだ。今日もおかわりをしないで店を出た。この店のように事前に食券を購入するタイプの店は、帰る際に会計というステップがないため、そのまま退店して良い訳だが、近くに店員がいない場合、「ごちそうさまでした」を告げる相手もなく、結果、無言で退店することになり、いかにも孤独な都市生活者然としていて少し寂しい。

定食屋から自宅の途中に大学の正門があるのだが、そこで何でもないようなただの暗闇に向かってカメラを向けている学生と思われる若い男を見かけた。彼が何の意図でカメラの先の暗闇を撮っているのかわからなかったし、意味があることのようにも思えなかった。ただ、彼はその暗闇の映像を含む日々撮り溜めた何気ない映像の数々を繋ぎ合わせ、冒頭とラストにオリジナルの詩的な何かを添えて一つの映像作品を完成させ、所属する映画サークルの作品発表会で上映でもするのだろうかと想像し、自分がやったことを見てくれる人がいるってとても幸せなことだなと思った。実際はどうか知らない。

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