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『学校するからだ』(晶文社)発売!――日本マドンナをめぐる思い出

 植草甚一でおなじみの晶文社より『学校するからだ』という本を出しました!

 2017~2018年くらいに企画が立ち上がって、のんびり書いていたらコロナ禍に突入、最後は起きた出来事をほぼリアルタイムで書いていました。以下、書くにあたってのいくつかの文脈を。

【文脈1】出版関係の人と話していると、学校というのは外部からは謎めいているらしく、意外と面白がられることがあるのだな、と思ったことがあります。また、けっこうな偏見があるのだなと思ったこともあります。学校をめぐるつまらない偏見を取り除きつつ面白い読み物が書けたらいいな、と思い、インディー文芸誌『ウィッチンケア』で学校エッセイを書かせてもらっていましたが、今回はそのノリを一冊にまとめたようなところがあります。
【文脈2】内田良さんや中澤篤史さんといった教育学者の鮮烈な登場以来、学校のしょうもないありかたが問題化され、これは本当に画期的なことでした。一方、そのような議論を学校現場に適用するときに、さまざまな困難やちぐはぐさを感じました。自分にできることは、そのような困難やちぐはぐした部分をおもてに出し、学校外の議論と現場的なリアリティをつなぐことだなと思い、FINDERSというサイトでそのあたりを記事にさせてもらっていました。本書においては、そのような社会的な/ジャーナリスティックな問題意識も多少はあります。とりわけコロナ禍に「オンライン授業万能論」が叫ばれるようになってからは、そういった世論に異を唱えざるをえず、そこでは、身体的な交流という本書のテーマがはからずも前面化しました。
【文脈3】10年まえくらいからか、自分の周囲にある批評言語がどれも似通ったものに思え、どこに行ってもTwitterの延長のような話題をみんなが話しているように思え、文芸界隈・批評界隈がひどく退屈に思えてきました。それよりも、批評とかに全然関心がないような人の言葉のほうがよほど面白いと思いました。そういう人たちとの回路をつなぐような言葉こそが真に批評の言葉だろうと思いました。このような議論は、基本的には、これまでさんざくり返されてきた大衆論の反復だとも思うので、かつて「大衆」について語ってきた批評について考え直していました。僕が批評や評論を読み始めたときは、大衆論などとっくに過去のものになっていたのですが、吉本隆明や加藤典洋なんかのリアリティはかつてよりは理解できた気がしました。「大衆」について考えた結果を「批評」や「論文」の磁場でおこなっても仕方ないと思ったので、エッセイみたいなものを書きたいと考えていました。そのときモデルにしていたのは、大野更紗さんの名著『困ってるひと』であり、ブレイディみかこさんのいくつかの著作などでした。
【文脈4】『コミックソングがJ-POPを作った』(P-VINE)という本は、吹奏楽部が楽器の練習をしているのが学校から聞こえてくる、という場面から始まります。そうして、次のように続きます。

 耳を澄ますと、あらゆるところに音楽が流れている。僕たちが気にしていないだけで、あらゆる場所にリズムとメロディがある。

矢野利裕『コミックソングがJ-POPを作った』

 本書は、そんな「あらゆる場所」にある「リズムとメロディ」の一部を切り取ったものだという意識もあります。その意味では、『コミックソングはJ-POPを作った』とも連続する大衆(ポピュラー)音楽史のいち場面でもあります。「僕たちの3年間は、どのようにグルーヴしていただろう」(第6章「コロナ以後の学校」)。

 試し読み的な意味で、以下に「第1章 部活動」の一部をアップします。日本マドンナのあんなさん、元気にやっているでしょうか。

2009年のRAD WIMPS
 
さて、翌年の2009年になると軽音部の高校生にパンクスはすっかりいなくなっており、代わりに存在感を放っていたのは、さらりとした黒髪の内向的なロック少年たちだった。
 去年のパンクスとかなり印象が違ったため、「君たちはメロコアとかはやらないの?」と聞いたら、ロック少年、「そういうのは去年までです」ときっぱり。聞けば、自分たちは退部してしまうような無鉄砲な先輩たちに反発し、破壊的でないかたちで軽音部を運営していくことに決めたのだ、という。
 興味深いのは、このような態度変更が音楽性となってあらわれていることである。新世代のロック少年たちは、3ピースのパンクバンドではなく、RADWIMPSのような4~5人編成のオルタナ系ロックバンドを志向していた。
 つまり、時代はすでに邦ロックのほうへと傾いていたのだ。飲酒をして停学になるような破壊衝動ではなく、内向的で鬱屈した思いこそが軽音部の高校生によって歌われるべきものとなっていた。高音のきれいなヴォーカルとともに。
 ライターの成松哲さんによるミニコミ誌『kids these days! Vol.1』は、多くの高校の文化祭に足を運び、各学校の軽音部ライヴのセットリストを順位にまとめた労作にして名著だが、それを読むと、2011年の各文化祭の傾向が見えてくる。
 そこでは、モンゴル800やザ・ブルーハーツといったメロコアやパンク系のバンドが上位にある一方で、ONE OK ROCKやRADWIMPSといった新世代バンドが台頭していることが確認できる。また、両者を橋渡しするようにELLEGARDENが上位につけているのも興味深い。
 もちろん、2009年におけるメロコアから邦ロックへの転換は、僕が勝手に世代間の物語を仕立てているところもあるだろう(書いてあること自体はすべて実話だ)。成松さんの分析によれば、当時起こっていたのは、そのような音楽性の変化以上に「軽音部内アニソンブーム」だったという。だからこそ、2011年のコピーバンド第1位は、アニメ『銀魂』の主題歌を歌っていたDOESということになる。
 いずれにせよ、通常語られるところの音楽史とはまったく異なる力学で、文化祭の選曲はおこなわれているのだ。

高3女子の初期衝動
 さて、母校の軽音楽部がメロコアから邦ロックへの転換を見せていた2009年、僕はかけもちで神奈川県の私立高校にも非常勤講師として勤めていた。ただでさえ通勤時間が長いうえ、勉強に対するモチヴェーションが低い生徒も多く、けっこう苦労した講師2年目だったことを覚えている。
 とはいえ、そのなかでも忘れがたい思い出というのはある。
 ある午後の授業中、どうにも勉強に身が入らない高3のクラスで雑談をしていたときのこと。どのような流れでそういう話になったのか覚えていないが、内容は「昨日ブックオフに行ったときにさあ……」みたいなものだった気がする。
 ある生徒に「ブックオフでなに買ったんですか!?」と聞かれたので、「知らないかもしれないけど、おにんこっていうバンドのCDが安くあったから買った」と答えると、さっきまで退屈そうに突っ伏していた女子生徒はガバっと起きて言った。――「わたし、おにんこ知ってるよ!」
 正直、彼女がおにんこ!というそれなりにマニアックなバンドを知っているとは思わなかったので、なにかと勘違いしているのだろうなと思った。しかし、もう少し話をしてみると、その女子生徒がたいへんな音楽マニアだったことが判明する。
 というのも彼女、もともと戸川純さんの大ファンだそうで、最近は赤痢(!)なんかも聴いているとのこと。僕も彼女も学校でそんな話ができる機会があるなんて思っていなかったので、「赤痢なんて聴いてんの!? すごいな!」とか言い合っているころには、お互いにとてもテンションが上がって、周囲のクラスメイトをすっかり置いてけぼりにしていたような気がする。
 さらに話を聴いていると、彼女、自分もスリーピースのバンドを組んでおり、円盤(高円寺にある有名な自主盤屋)に自主制作のCD‐Rを置いてもらっているということだった。
 ということで、初期衝動としか言いようのない、行き場のない怒りと音楽の喜びがぐちゃぐちゃになった自主CD‐Rを円盤に買い行って、その後はしばらく愛聴していた。彼女はその少しあと、日本マドンナという女性3人組のパンクバンドのフロントマンとしてインディーデビューすることになる。
 デビュー後、僕も何回か日本マドンナのライヴを観に行ったけど、彼女の演奏は、荒々しくてエモーショナルで素晴らしかった。さらに言うなら、同世代でロックバンドをしていた、高くてきれいなヴォーカルをした男の子たちの、その内向きの自意識を蹴散らすような堂々としたたたずまいだった。当時の代表曲は、「村上春樹つまらない」「幸せカップルファッキンシット」あたりだっただろうか。
 そんな日本マドンナは当時、音楽ライターの松村正人さんから次のような評価を受けている。

女子高生という、宮台真司以降特権的に語られてきた場所からセカイに手を伸ばす彼女らにはディケイドの違いにもかかわらず、似たような愛憎は息づいており、愛とか憎しみとかにはにかむ女子高生らしい気持ちもまた持ち合わせている。世代論や、まして年の差なんて詭弁にすぎないといいたい私がいる一方、「東京で深呼吸をした、まるでコカインのようだ/私の肺は東京になり、それは東京病と言った」と歌われると、両肩にのしかかるリアリティに前屈みになり、彼女たちが「村上春樹つまらない」で切って捨てた村上春樹が『アフター・ダーク』でゼロ年代に描ききれなかった90年代の渋谷=東京をテン年代の女子高生が皮膚感覚で感じかつ更新したのに驚かざるを得ない。(『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』)

 授業は無気力気味で、最低限の課題をこなしたうえで、わりと好き勝手な感じで振る舞っていた印象だった。くだんの村上春樹も授業の合間に読んでいたことを覚えている(そのときは、『辺境・近境』だったか紀行文を読んでいた記憶がある)。
 僕は小論文の授業を担当していたが、彼女の内側には言葉にならぬ感情がうごめいていたことだろう。国語の教員としてそのような感情のうごめきをおもてに出すことは、残念ながらできなかった。というか、そんなことにまで介入すべきなのかもわからない。
 彼女にとって大事だったのは、学校的な「こうしなさい」という規範の外に出ることだったはずである。理性的なだけの論文指導では、そのような規範を相対化するのはなかなか難しいだろう。当時の彼女にとって、そのような規範を打破するような力強さをもっていたのは、戸川純のような生々しいまでの身体の表現だった。
 彼女は軽音部でバンド活動をしていたわけではない。彼女にしてみれば、部活動もまた、つまらない学校的規範とともにあったのかもしれない。だからこそと言うべきか、教員‐生徒という関係を一瞬離れ、学校ではなかなか見せることのない趣味の部分で盛り上がった感触が印象深く残っている。教員として思うのは、彼女が抱えていたであろう初期衝動をかたちにすることに、いかに教育は関わることができるのか、ということだ。いやそもそも、関わる必要があるのだろうか。

『学校するからだ』「第1章 部活動」より

『学校するからだ』という本に対しては、あまりにも読み直しすぎて、もはや自分では出来栄えがわからなくなっています。でも、それなりに面白いと思うので、ぜひ買って読んで欲しいです!

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