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『文學界』の「削除」の件について

在野研究者の荒木優太氏が、『文學界』の新人小説月評の担当を任期途中で辞めることとなったようです。岸政彦氏の作品に対する評言に変更を求めた編集部と荒木氏双方の意見が折り合わなかったすえ、荒木氏が「辞めさせられた」(荒木)とのことです。経緯や荒木氏の考えについては、以下の文章にまとまっています。さまざまな点において、たいへん重要な問題提起になっています。

話題性のあるトピックをツイッターで触れるのは好きではないのでここまで静観していましたが、《新人小説月評を担当したことがある》という意味では、自分にも関わることだと思い、どこかのタイミングで思ったことを書こうと考えました。ということで。

まず、発端となった荒木氏のツイートの内容が「勝手に削除されました」というものだったので驚きました。しかしこれは、《荒木氏に相談なく削除した》という意味ではないようです。いちおう荒木氏と編集部のあいだで事前のやりとりがあって、荒木氏の「お好きになさるとよいでしょう」という言葉を受けて削除にいたった、と。したがって、編集部からしたら「勝手に削除」したわけではない、という言い分になっています。もっとも、荒木氏からしたら、自分の意志を曲げられるかたちで「削除」をされたわけだから、「勝手に削除されました」ということになります。ここに両者の認識の違いがあります。

この点に関しては、ネット上では「お好きになさるとよいでしょう」という皮肉表現をそのまま受け取って「削除」にいたった編集部を批判する向きもあります。もちろん、荒木氏の「お好きになさるとよいでしょう」が《合意》や《譲歩》の意志表明でないことは明らかです。ただ、個人的な印象を述べさせていただくと、双方の主張が折り合わず《交渉》の段階になっていると考えるならば、「お好きになさるとよいでしょう」というワードは《譲歩》以外の何物でもないと思います。ここ数年、シビアな《交渉》の現場に居合わせることがしばしばありましたが、そのような場においては、いかに言葉尻をつかまえるようなコミュニケーションが繰り広げられるものか。これはこれで、法的な厳密性のなかでのコミュニケーションなので、馬鹿馬鹿しく思えるときもあるものの、簡単に軽視できるものではないと思います。さらに言えば、ネットを使っての宣伝活動は、その時点で決裂をメッセージし、双方が完全に敵対関係になったことを意味するので、そのような《交渉》のコードから見ると、「辞めた」なのか「辞めさせられた」なのか、というのもやや複雑になります。ネットでの「吹聴」にはどのような意図があったのか、ちょっとわからないところです。

ましてや、組織とフリーという非‐対称的な力関係のなかでは、相手は組織体の維持のために簡単に権力を振るいます。これは、相手が話がわかるとかわからないとかいうことではなくて、構造的にそういうものです。だから、編集部の権力のなかで書く場を確保して金をもらう以上、組織体の権力を低く見積もることは、僕は良くないことだと思います。念のために言いますが、これは《編集部に迎合しろ》ということではありません。非‐対称的な力関係の相手と対峙し交渉するさいは、むしろ細心の注意が必要だということです。だから、本当に闘う局面には弁護士などが必要になる。逆に言えば、組織側は権力の非‐対称性に最大限注意を払って振る舞う必要があります。それができなければパワハラになるので。だから僕の考えからすれば、今回の件は、表沙汰にすることは慎重に、粛々と内部で交渉を続けるのが良かったのではないか、ということになります(まあ、締切が切迫しているという事情もあったと思うし、これも勝手な意見かとは思います)。僕も基本的には組織に属している人間なので、そのあたりは体制側の思考になっていると思います。その意味では、改良主義的かつ日和見主義的かもしれず、とくに文筆業をしている方々からは異論もあるかもしれません。上記の自分のような立場だと世間に対する問題提起の契機が失われるので。ただし一方で、体制側の論理を内在化せずして、どうして体制批判ができようか、という気持ちも強いです。

さて、そのうえで、荒木氏の岸作品評を「削除」するという編集部の判断ですが、これは正直よくわかりません。「削除」された文言自体がどうということではなく、単純に、直前の瀬戸夏子氏に対する評言のほうが失礼ではないか、と感じるからです。岸作品に対する評を「乱暴」「批評として成立していない」と判断し、瀬戸作品に対する評を「乱暴でない」「批評として成立している」と判断する根拠は、自分としてはよくわからないところです。こうなると、次の疑問、すなわち《岸政彦氏・川上未映子氏(という偉い人)に対するものだからNGだったのか》が頭に浮かびます。ちなみに、僕が新人小説月評を担当したとき一度だけNGが出たのは、宮本輝氏を批判したときです。切って捨てるような僕の批判の仕方に対し、編集部から修正案が示され、結果感情的になりすぎない批判となりました。その修正に対しては疑問も不満も感じていませんが、この件から振り返ると、宮本輝氏という固有名に少し意味を感じてしまいます。宮本氏もやはり、芥川賞の選考委員という偉い立場ではありますから。どうなんでしょう。いずれにせよ、根拠不明瞭のまま書き直しを命じられる、というのはたいへんな出来事なので、その点、編集部側から具体的な説明が明らかにされることを望みます。

他方、この問題にともなって栗原裕一郎さんが、「どんな問題が起ころうと大方の構成員がしなやかにスルーする文芸業界の同調圧力にはいつもながら感心させられる。飼い慣らされた羊たちよ」とつぶやいていますが、最近よく見る、この沈黙=容認という図式には同意できません。だいたい、ツイッターで意見表明することがどれほどの意味をもつというのでしょうか。むしろ、ツイッターで意見表明したことで免責が生じる可能性とかないのでしょうか。そもそも、ツイッター見ている人だって限られているだろうし。僕は、ハッシュタグ運動にあまり関心が持てないのと同じ理屈で、ツイッターで意見表明することにもあまり意義を見出していません。沈黙も「同調圧力」の結果なら、意見表明も同じくらい「同調圧力」の結果でしかないしょう。

この沈黙=容認図式、渡部直己氏のセクハラ騒動のときもかなり起こっていました。あのときは一部で「関係者は意見を出すべき」という論調になっていましたが、訴えている被害者がいて、さらに一部係争中の案件においては、「関係者」であればあるほど、ネットで意見なんて出せるはずはないですよ。そんなの当たり前じゃないですか。もし求めるとするなら、双方で決着が着いたあとにどう《総括》するか、ということで、それだって被害者のケアという観点を踏まえながらするべきなので、基本的には抑制的にならざるをえない。そういう「関係者は意見を出すべき」論を見ていると、そちらこそ文筆業ムラにおける社会ズレを感じてしまうのですが、どうですかね。説明責任が誰にどこまで生じているのか、という点は、慎重に見るべきだと思います。

今回の荒木さんの振る舞いに対して、おもに手続き面で賛同しない部分もありますが、ほぼ同世代・ほぼ同時期デビューですし、著作も人格(というほど、しっかりと話したことはありませんが)も好感しかもっていないので、今後も変わらず応援しています。――というこの気持ちも、ツイッターにおいては居場所がないかもしれません。

【追記】
本記事がアップされたのち(荒木さんご本人も読んでくれました)、荒木さんからさらに「『文學界』編集部に贈る言葉」という文章が出ました。

内容は、僕としては異論があるものではありません。『文學界』としたら、もしかしたら「ルートa,b」のどちらにも当てはまらない、と考えるのかもしれませんが、求められている内容は受け止めるべきものだと思います。『文學界』側が真摯に受け止め、今後の誌面に反映されることを望みます。荒木さんの追加記事で新しい情報だったのは、「そして校了直前のことです、「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)の一文を削るか変更せよとの要求が担当編集者からきたのは。」という点。このタイムラグには、編集部内における判断の恣意性を感じました。また、荒木さんが、その「判断の恣意性」それ自体を批判対象にしている、ということも理解しました。その点については同意見です。『文學界』には、人(評者・評の対象者・編集者……)が変わっても判断は変わらない、という制度設計を強く求めます。

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