2021/2022年――批評・書評についてなど

・2022年になりましたが、相変わらず新譜・新作に疎く、1年単位でなにかを語れるようなカルチャー摂取の仕方をしていないので、年の変わり目で言うべきことは思いつきません。中古レコードばかり買っていた1年でした。夏以降は、小山田圭吾のことをよく考えていました。
・2021年のトピックとして思いつくのは、『キングオブコント2021』と『M-1』が面白かったことです。空気階段や錦鯉が優勝するというドラマを筆頭に、良い感じの物語があって、みんなが訳知り顔で語りたがる余地があって、社会性も見出せる感じもあって、シーンとして率直にうらやましさを感じました。もちろん、ああいうショウレースがはらむ問題性もあるのでしょうし、そういうことの分析は必要でしょうが、それも含めて存在感にけっこう惹かれました。
・「批評」をめぐって、いろいろ議論が起こっています。群像新人評論賞とすばるクリティーク賞がそれぞれ休止・終了となってしまいました。
・すばるクリティーク賞に関しては、立ち上げからここまでわきで見ていたので、いろいろと思うところがありました。終了の大きな理由は「この賞に中心的に関わっていたスタッフが『すばる』を離れることにより、賞の継続が難しくなった」ということですが、僕の印象からすると、ここからうかがえるのはむしろ、その「スタッフ」がかなり無理を通してすばるクリティーク賞を立ち上げたのだな、ということであり、さらに言えば、その背後に労働をめぐる問題があるのではないか、という疑問です。このあたり内情がわからないので、いまのところなんとも言えませんが。ちなみに、選考委員がすべて読んだうえでの選考座談会の収録はとても素晴らしい試みだったと思います。成果も素晴らしかったと思います。お疲れさまでした。
・『群像』について。(いったん自分のことを措きつつ)推察するに、『群像』は「批評に力を入れる」という態度を打ち出していますが、それは、伝統的な文芸批評(この場合、小林秀雄を中心とする)ではなく、現代なりの「批評」を模索しているという感じがします。去年、小川公代さんと小田原のどかさんの『群像』の連載がそれぞれ単行本化されましたが、こういうところに『群像』側のメッセージを感じます。ポップな装丁でソフトカバーというのも、イメージの刷新を図っている印象です。
・ひとつにはやはりジェンダーの問題。これまでも誰もが少しずつ話題にしていたことで、つい先日も、川口好美さんと杉田俊介さんがTwitterでライヴトークをしていたときに話題にしていましたが、「伝統的な文芸批評」が、実存も含めたかたちで書き手の強い自我(←この言葉がふさわしいのかわかりませんが、さしあたり「自我」とします)を求めるのであれば、それ自体がすごく男性中心的なありかたではないか、という問題。僕の印象では、『群像』(ここに『文藝』における「批評」の力の入れかたを加えても)は、そのような男性中心主義的なにおいを感じさせる「文芸批評」と距離を取りたい(決別したい?)ように見えます。それは少なからず、2020年代という時代の反映なのでしょう。ただ、去年『暴力論』を出した高原到さん(2015年に群像新人評論賞優秀作受賞)は、その意味では「伝統的な文芸批評」のラインにある気がするので、そちらの道もあるのかもしれません。こちらは小川さん・小田原さんの著書とは対照的に、黒い装丁のハードカバー。
・自分のことについて。群像新人文学賞評論部門出身の僕は、「批評家」(最初は「批評家・ライター」としていましたが、「ライター」を取りました)と名乗って、肩書きに書き手としての自我の強さを込めていますが、一方で「伝統的な文芸批評」の「伝統的な文芸」という部分に対してはそれほどこだわっていません(いや、本当はこだわっていなくはないのですが、通常想定されるようなかたちではこだわっていません)。来年の2月には『群像』で書いた4本の論考を中心にした文芸批評の本が講談社から出る予定ですが、これはいずれも、現代の作家を扱ったものです。あとは、小山田圭吾をめぐる件について。単行本の経緯については、必要性を感じたらまた書きたいと思いますが、ざっくり言うと、自分のほうから「本にして欲しい」とお願いしました。このとき、「群像は批評の本を出して行きたい」みたいなことを言っていた記憶があります。ただ、先ほど述べたように、ここで言う「批評」は、いわゆる「伝統的な文芸批評」ではないのかもしれません。また、「群像」という主語(主体)が実質的になにを指すのかについても、考える余地があるかもしれません。いずれにせよ、僕の場合、現代作家を扱っていること、小説以外のジャンルに言及していること、という2点において、「伝統的な文芸批評」から距離を取っている、ゆえに起用できる、と判断されている気がします。「本にして欲しい」と頼んだタイミングと上記『群像』の方針が合致して、単行本化が実現したのではないか、という印象です。その意味では、共犯関係と言えるのかもしれません。引き続き、自己分析します。
・なお、去年、最後の群像新人評論賞優秀作を受賞した小峰ひずみさんも、早くも講談社から単行本が出るらしく、そういう意味では群像におけるある種の批評の流れは感じています。だとすれば、群像新人評論賞は、今度は文芸批評を連想させないような選考委員の顔ぶれで、おそらくは(東浩紀さんの提言通り)男性以外が過半数を占めるかたちで、ここ数年くらいで復活するのではないか、という予想が立ちます。あくまで予想ですが。
・では、かりに『群像』がそのような「批評」を求めるとして、それについてどのように思うのかと問われれば、僕自身は、直感的にはその方向で良いと思っています。ある種の「文芸批評」に対しては、本当に男性中心主義的ではしたないと思うことが多いし、さらにそれが文芸誌的な権威(←「権威」という言葉も便利でよく使ってしまいますが、要注意ワードではありますね)とくっつくのは嫌です。ただ、これについては議論すべきことがたくさんあるので、これからみんなで考えていきたいです。もはや、自分も片足以上つっこんでいるし。
・一方、矛盾するように聞こえるかもしれませんが、周囲の空気や他人に流されず、それぞれがちゃんと大事なことを言う場所――すなわち、ちゃんと「批評」する場所を失ってはいけないとは思います。それは、文芸とかジャンルの話ではなく社会全体の話として。人それぞれ意見が違うに決まっているのだから、それぞれの立場からしっかりと意見を表明してそれをすり合わせるようないとなみがあって然るべきですが、SNS以降の現在では、ちょっとした意見の違い(支持政党の違いも含め)を指して、あたかも理解不可能のように語る語り口が目につきます。これは、みんなが強い意見をもっているというより、みんなが異なる意見に対する耐性をなくしている、という印象です。だから、まっとうに意見を交換できる場所があったほうがいい。その意見のことをかりに「批評」と呼ぶなら、その意味ではやはり「批評」は必要だと思います。

・これは、2021年的なトピックである「批判」批判に対する「批判」の復権とも区別されます。自民党が野党に対して「批判ばかり」と言うのは筋違いですが、一般的に「野党が批判ばかりしている」と言われることについては、真剣に向き合う必要があると思っています。それは、90~00年代と続いている否定性を重ねていくような言論状況に向き合うことでもあると思います。
・インディーズの批評誌が活性化しているのは、とても良いですよね。刺激的だと思います。とくにやはり、『大失敗』『LUCKY STRIKE』(両誌を一緒くたにしてはいけませんが)は、みんな単純に戦闘力が高くて、かなり存在感あります。意見が合わなそうところも多いですが、それも含め、たいへん刺激を受けました。あと、『生活の批評誌』『機関精神史』も素晴らしいです。『文学+』の紙とウェブの両輪もとても良いです(「速度」の問題、重要だと思います)。『対抗言論』『ららほら』もたいへん貴重な試みだと思っています。さらに、『LOCAST』をはじめとする批評再成塾ラインの活動も。
・ここまで踏まえ、年末の豊崎由美さんとけんごさんを中心に(?)巻き起こった「書評」騒動について。騒動自体は年越しとともに忘れていいものだと思うし、豊崎さんがあんなに炎上することではないと思います。その後の経緯も含めての概要と総括は、速水健朗さんとおぐらりゅうじさんのポッドキャストが興味深かったです。
・書評シーンについて。ちょうど1年まえくらいに、書評家の倉本さおりさんに「書評のモチヴェーションが持ちにくい」と個人的に相談(?)したことを思い出しますが、個人的には、そもそも今回の件が起こる以前から「書評」の意義がずっと見出せないでいました。栗原裕一郎さんによる「広告的機能」と「批評的機能」という整理がありました。なるほど、そうすると、僕の感覚に即したとき、現状の書評は、《「批評」っぽい機能を打ち出しつつ、実質「広告」》というふうに見えている、という感じかもしれません。「広告」は別に悪いことではないと思うので、どちらかと言えば、「批評っぽい」の部分が引っかかっています。ようするに、「書評」は「広告的機能」こそ持っているかもしれないけど、そもそも「批評的機能」を持っていない(持ちえない)のではないか、と思っていた、ということです。ただ、このあたりの話になると、今度は「批評」の定義が問題になるので、またさまざまな議論が必要になるとは思います。
・ちなみに、豊崎由美さんは「削りに削った末に残った粗筋と引用。それは立派な批評です」(『ニッポンの書評』)と書いています。小説内容の取捨選択にはすでに書き手の問題意識が反映されるので、その意味で「批評」的と言えるとは思いますが、僕の感覚ではこれは「批評」と呼ぶことに抵抗があります。良い悪いではなく、たんに感覚の問題として。逆に僕の「批評」なり「書評」なりは、場合によっては、豊崎さんからしたら「①自分の知識や頭の良さをひけらかすために、対象書籍を利用するような「オレ様」書評は品性下劣」という項目に当てはまってしまうのかもしれません。僕は、自分が書評を書くときに『ニッポンの書評』を具体的に参考にしています。たびたび言っているのでここでも書きますが、この本は名著だと思っています。技術論をしっかり書いている文章は貴重です。
・「書評」の意義については、年末の週刊読書人イベントで、長瀬海さんが「同時代評を残すという意義がある」と発言されていて、その観点はあまりもっていなかったので、なるほどと思いました。たしかに、過去の小説の同時代評を見ると、賛否両論があったりして当時の状況がうかがえます。この意義深い機能は、けんご的なありかたではありえないでしょう。

・だとすれば、現在の「書評」はそのような場所として機能しているか、ということが次の問題でしょうか。僕としては、あまりそのようには機能していない、という印象です。ただ、このあたりは異論もあるかもしれないので、いろいろ教えて欲しいです。印象だけで言うと、現在の書評は「あらかじめ読書に興味があったり読書が好きだったりする人に対する宣伝」という感じがします。念のために強調しますが、それ自体は素晴らしいことだと思います。ある種の「批評」よりよほど良い気すらします。本当に。ただ、そうすると、僕の感覚では、けんご的なものも同じ観点から「良いな」と思ってしまうので、その前提で見たとき、今回の騒動はやっぱりよくわかりませんでした。むしろ、「あらかじめ読書に興味があったり読書が好きだったりする人」よりもっと手前で、「必ずしも読書に興味がない人」に向けられているという意味で、個人的には、けんご的なもののほうがうらやましさを感じたくらいです。そうなると、ここでますます「書評」の意義を考えてしまいました。なんというか、普通に自分のなかで「書評」の意義が見失われているのかもしれません。
・加えて、「あらかじめ読書に興味があったり読書が好きだったりする人」のコミュニティみたいなものが存在している気がして(実体としてなにを指すのかは曖昧なのですが)、この雰囲気が苦手というのもあるでしょう。このあたりはもはや難癖に近い可能性もあるのですが、一方でなにかの問題がはらまれている気もします。主観多めで書きますが、この読書好きコミュニティと書評シーンが両輪でまわっている現状もまた、先ほど書いた「自分の意見をしっかりと表明すること」がない現状の裏表に見えます。ある程度の傷つき/傷つかれがあるにせよ、お互いの意見や問題意識をいちおうぶつけ合っているように見える態度(「批評」が本当にお互いの意見をぶつけ合っているのかどうかは、かなり議論の余地もあるでしょう)のほうが、その意味では健全には見えます。そのように考えたとき、豊崎さんのTwitterの発言(とくに「あの人、書評書けるんですか?」の部分)は、マウントというよりは、書評シーンを後ろ盾にしながら発された言葉に見えて、やや脊髄反射的かもしれませんが、「書けたからといってなんだというのだ」と強く思い、とりあえずいまは、小説の「書評」を書くのはもうやめよう、という気持ちになっています。この場から離れたいな、と。どうなんでしょう。よくわかりません。(←読み直すと、「書評シーン」を実体化しすぎていますね。ちょっと問題提起程度に。)

・ちなみに、『ニッポンの書評』には、著者にとっての刺激という機能も書かれていて、この機能はとても大事だと思います。自分の本に対してある程度の分量の書評が出たら、これは刺激的だし、活性化になると思います。それはよくわかります。

・おまけで言いますが、文学賞の下読みをやっている人がTwitterで応募作の文句を言っているのをしばしば見かけますが、あれもすごく嫌ですね。教育的なつもりなのかもしれませんが、自身の特権化と応募者に対する萎縮効果のほうが強いと思います。そして、そのあたりまで含め、けっこう自覚的な雰囲気すら伝わってくるので、もう全部嫌。
・ただ、いままで書いたようなことは全部自分に返ってきますね。自分がいちおう「批評」にコミットしているとして、では、その「批評」は、まっとうな意見の表明になっているのか。結局は「批評」シーンにおける内輪向けコミュニティのなかの言葉でしかないのではないか。あるいは、「意見の表明」らしきものをしたとして、それは、声の大きさや態度の大きさや社会的な立場の大きさを不当に利用した「意見」になっていないだろうか。全部、つねに問い返すべきだと思います。
・大切なのは現状の社会に適切に切り込むような言葉であって、僕はそれをいちおう「批評」と呼びますが、ジャンルとしての「批評」と完全一致しているわけではありません。そのような言葉のありかたをいろいろな人と直接的・間接的に議論し、交わしていきたいです。それは、書面やSNSに限りません。
・そんなことを考えていると、もう、自分の考えを文章にしてカネをもらう行為が全般的にはしたない行為に思えて嫌になってきますが、この行為が生活のなかで循環している限りにおいては、いちおう続けたいと思います。あとは、このはしたなさを認めていくありかたこそ、古今東西の芸人が示していることであり、そこに魅力を感じるのもまたたしかなので、ちゃんとはしたなさに目を向けたいとも思います。

・今年の目標は「自我は排すが主体的でいること」です。それがなにを意味するのか具体的にはよくわかりませんが、「自我」とは別の主体性のありかたについて考えたいと、少しまえから思っています。それは、のび太的なありかたであり赤ちゃん的なありかたであり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?