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読めない本をめぐって――樋口毅宏『中野正彦の昭和九十二年』の回収騒動

 樋口毅宏『中野正彦の昭和九十二年』の回収騒動のことが、ちょっと気になっているので書いておきます。まず前提として、私自身は作品を読むことはできていません。いくつかの書店をまわってみましたが、書店で見つけることはできませんでした。連載時も読んでいませんでした。残念ながらと言うべきか、こうなってしまった以上、今後もしばらく読む機会はなさそうです。以下、論点別に書いていきます。

論点①――表現の「回収」をめぐって

 一般論として言うと、このような回収がおこなわれてしまうと、その作品の内容が差別的か/差別的でないか、という議論や検証自体ができなくなります。したがって、どんな表現であっても、まずは「回収はするべきではない」が原則だと思います。内容が差別的なものだとしたら、その内容についてしっかりと批判することが重要なのであって、「たとえ批判する側であっても出版物そのものを検証不可能にすることは望まない」というのが、従来的なスタンスだったと思います。人によっては「言論の自由」「出版の自由」の観点から、このような主張をするでしょう。私も基本的には、その立場から出発します。
 もっとも近年の議論の傾向からすると、「それを出版すること自体が差別なりヘイトなりに加担することになるので、出版それ自体を止めないといけない」という立場もありえます。開き直ったような差別的発言をあまりにも多く見聞きする現在、「言論の自由」を盾にした両論併記的な振る舞いが致命的な差別やヘイトを野放しするのであれば、やはりある程度強引にでも回収をすべきだろう、ということです。それはそれで理解できる局面もあります。だから私の感覚からすると、「回収すべきではない」が大原則で、例外的に「回収すべき」局面もある、といった認識が実際のところです。とはいえ、これは難しいところですね。そもそも「出版すべきか/すべきでないか」が論点なので、そこでは、オープンな議論それ自体が「出版すべき」側の論理に乗ったものと見なされます。個人的には、この論理に対してはかなり慎重になるべきだと思っていますが。いずれにせよ、個別判断が求められるのはたしかでしょう。
 とはいえ、とくに最近気になっていたのは、回収を含め表現そのものを検証不可能にするハードルがどんどん下がっているのではないか、ということです。差別に鈍感な者が言う、開き直りとしての「両論併記」はダメでしょう。しかし、それとは逆向きの、開き直りとしての「回収」も、その表現に対する検証可能性を閉じていくという点ではたいへん危ういものです。表現規制や作品回収といった行為がそういう危うさをはらんでいるということは、あらためて確認しておきたいです。そういったさきに、「棲み分ける」とか「ゾーニング」とか、落としどころをつけるような議論もあるのかもしれませんが、そもそも表現の中身が確認できなければ、そのような議論をおこなうこともできないことになります。

論点②――「社内承認プロセス」をめぐって

 さて、作品を刊行するのは出版社なので、その決定を最終的に下すのも出版社ということになります。本の奥付に「発行者」(基本的には社長)と「発行元」(出版社)が必ず記載されているように、すべての刊行物は、形式的には「発行者」の判断・責任のもと出されることになります。したがって、出版社の方針として「差別的でとても世に出せるものではない」と判断されれば、その本が発売されることはありません。もちろん差別云々にかぎらず、内容が拙劣だったり利益が出ないだろうと判断されたりしても、その本はその出版社から出ることはありません。当然のことです。
 それで言えば、今回、一部書店に搬入されていることからもわかるように、版元であるイースト・プレスは当該作品を発行することにゴーサインを出している、ということになります。回収された当該本には、奥付には「発行者」と「発行元」の名が記載されていることでしょう。今回の件でいちばん不可解なのは、一度ゴーサインが出ておきながら、書店搬入後の正式発売直前で回収となった、そのタイミングです。
 もちろん当該本が直前に回収になったのは、社内の反対派がTwitterで一種の告発とも言える行為をしたことがきっかけだったと思われます。告発めいたツイートにより騒動が大きくなった結果、当該作品の回収という判断にいたった、というのが外から見ていた感じです。
 さて、イースト・プレスからの報告は、「刊行にあたっての社内承認プロセスに不備がありましたので回収とさせていただきます」というものでした(現在は削除)。これはどういうことなのか。推測するのみですが、考えられる可能性はふたつです。

①当該作品の担当編集者が社内での正当な手続きを踏まず、なかば騙すようなかたちで、強引に出版にこぎつけた。

 つまり、「版元としては本来世に出すべきではないと考えていたけど、誤って出てしまった」という構図。この場合、社内的には「担当編集者」が追及されることになるけど、対外的には、「発行者」「発行元」の責任となります。まさに「社内承認プロセスの不備」のなかで、誤って本が出てしまった、と。告発者の「裏切りや反則、不誠実」という言葉には、①の事態を想像できなくもないです。
 もうひとつは、以下の可能性です。

②社内的にはゴーサインが出ていたけど、当該本を問題視する一部の反対派の告発を通じて出版が食い止められた。

 こちらは、「版元としては出版すべきだと判断していたが、内部からのキャンセルが起こった」という構図になります。この場合、社内で追及され、孤立するのは反対派のほうですが、その反対派は一方で、自分が属する組織の間違った判断を内部から食い止めた、ということになります。もっとも、その回収の判断が正しいのか間違っているのか、読んだ人にしか考えることはできません。もし、このパターンだったのであれば、LINE公開を含むTwitterでの告発はたいへん勇気のいったことでしょう。告発者のTwitterでの書き込みのほうを見ると、少なくとも告発者は②の意識をもって告発をおこなった、ということがうかがわれます。
 ①の場合にせよ②の場合にせよ、社内で意見がまとまりきらなかったという意味では、「社内承認プロセスの不備」と言えるでしょう。その意味では、イースト・プレス側の説明はああいったものになるのでしょうが、とはいえ、そのような一般論では納得しがたい人たちがいるとも思います。事実としては、①と②の要素がそれぞれ含まれた感じなのかなと想像しますが、ここにはそれぞれの立場で認識の違いも出てくるでしょう。いずれにせよ、イースト・プレス側からもう少し説明が出てくることを期待したいです。それなりに公共性をもつ議論を含んでいると思うし、なにより著者が気の毒です。

論点③――労使間の交渉をめぐる問題として

 以上は、組織論的な話です。自分が組織に属すると組織論に関心が行くようになりますね。こういうリアリティは以前ならあまりありませんでした。評論でももう少し抽象的で存在論的なものが好みでしたが、一方、政治思想においては党の問題や組織の問題が付きまとうので、これはこれで重要な思想的問題とも言えます。
 さて、ちょっと気になっているのは、かりに②のパターンとして今回の件を見た場合です(強調しますが、実際のところはわからないので、あくまでも仮定の話として書きます)。というのも、告発者のTwitterを見るかぎり、ここには「社内での対話を試みたが埒が明かないので宣伝に及んだ」という経緯を見ることができ、その構図が、労使間における交渉のいち場面にも見えるからです。このように見た場合、Twitterへの書き込みは、組合用語で言うところのいわゆる「情宣(情報宣伝)」の一種、あるいは街宣活動の一環として見ることができます。街宣活動によって世論を味方につけ、無視できないところまで事態を大きくさせ、社内判断に変化を加える――。とある労働組合系の組織に教わったところによれば、街宣活動は非対称的な力関係に変数を加えることを目的とします。だとすれば、もし②のパターンだった場合、まさに告発者の意図どおりに事態が進んだことになり、交渉としてはかなりの成功をおさめたということになるでしょう。
 他方、②だった場合、出版社側からすると、いくら世論の高まりがあったとはいえ、一度社内で決定したことをいち社員の書き込みで取り消したことになるので、これはたいへんなことです。ここでは、出版社側の根本的な態度が疑われることになります。言論を扱う出版社としては、必ずしも世論に沿っていなくても出版するということもありうるわけで、そういう意味では、出版にあたってはそれなりの覚悟が求められることになります。当該本が差別にあたるかどうかとは別に、それなりに実績のある出版社が、発売決定/中止・回収の判断をいとも簡単に一変させてしまうことは、出版にあたってそのような最低限の覚悟があったのか、ということが問われることになります。だから、今回のあまりにも迅速/拙速な発売中止の決定を見ると、やはり①(本来的には当該本を出すつもりがなかった。だから回収の判断も早かった)に近いことが起きていたのかとも想像しますが、どうなのでしょう。
 情宣活動も街宣活動も、当然のことながら権利として認められるので、そのかぎりにおいてはなにも否定されるべきことはありません。むしろこのような行為は、苦しい立場にいる人にとっては大きな力になるでしょう。今回の告発者においても、おそらくそのような切実な思いがあったのだろうとは思います。
 ただ、SNS以降の時代に考えてしまうことがあるとすれば、次のことです。すなわち、SNSの普及によって街宣活動がこれまで以上に手軽になったこと、また、SNSの普及によって街宣活動の力がこれまで以上に強大になったこと。かりに②のパターンだとしたとき、もし本当に社員によるTwitterの書き込みひとつがきっかけで、正当な手続きによって進められた出版社の判断が揺らいでしまうのであれば、これはやはり組織として健全なことではないでしょう。
 組織にとって健全さとはなにか。それはひとつには、SNSによってもたらされたクレームや問い合わせや嫌がらせを突っぱねって、当初の方針を貫きとおすことです。もっとも、いまやそれはいちばん難しいことなのかもしれません。しかし、出版社にかぎらず、さまざまな組織なり企業なりが信念に基づいた方針をある程度は貫くべきだと思います。そのうえで、正々堂々と批判されたり賛同されたりするべきだと思います。
 健全さのもうひとつは、簡単に街宣活動には頼らず、組織内で対話を重ねることです。SNSやブログの登場によって、たしかに街宣活動は簡単になりました。それによって注目も集めやすくなりました。しかし街宣活動をおこなってしまうと、その人は組織内で少なからず孤立することが予想されます。SNSの利便性がそのような先行きを軽視することにつながっていなければいいのですが。具体的に言うと、もし今回の騒動が②のパターンだった場合、告発者が今後組織内でどのような立場に置かれるかが、まことに勝手ながら気になります。きっと同志もいるのでしょうが。

 ここ数年気になっているのは、街宣活動へのハードルの低さが組織維持の軽視や周囲との関係性維持に対する軽視につながってはいないだろうか、ということです。今回の回収騒動に関しては、わからないことが多いので直接的になにを言うつもりもないのですが、「回収」と「告発」というふたつのことについては考えをめぐらせていました。
 いずれにせよ、一度発売を決めておきながら、発売直前というタイミングで、このようなかたちで「回収」したという事実がある以上、イースト・プレスという「発行元」は、著者に対してたいへんな不義理をしていると思います。これでは、出版にあたって最低限の覚悟が決まっていたのは、唯一著者のみと言わざるをえません。それぞれの立場でそれぞれの事情があるのでしょうが、なによりも著者に対して誠意を尽くして欲しいです。まことに勝手ながら。

追記(12/23 17:38)

この記事は数日前に書いていたものですが、12月22日付けでイースト・プレスの代表取締役・永田和泉氏より「『中野正彦の昭和九十二年』回収について」という文章が出ていました。

「社の最終判断を得ることを行っておりませんでした」という文言があるので、「なかば騙すようなかたち」なのかどうかはともかく、①の要素がうかがえます。一方、Twitterに書き込みをした社員に対しては「社内規定に則った対応」という文言があります。全体的には、結局のところ、①寄りのケースだったということでしょうか。それはそれで杜撰な印象は残りますが。

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