《メンバーシップ》と《共感》について――DaiGoの発言から

DaiGoによる「ホームレス」をめぐる問題発言

 セネガル人打楽器奏者のラティール・シーさんが開会式の出演をキャンセルされた問題、あるいは、このかんずっと報道されている出入国管理局におけるウィシュマ・サンダマリさんの問題(最近では、遺族にビデオ映像が一部開示されたとの報が入っていますが、本当に考えられないことばかり)などがあるなか、東京オリンピックの開会式では「多様性」という言葉が連呼され、そのあまりの実態のともなわない空虚な響きに、なんというか複雑な気持ちになりました。それは東京オリンピックに限ったことではなく、そもそも新学習指導要領で新たに強調されることになった「多様性」という言葉が、そういった言葉が入ってきたこと自体は歓迎すべきとは言え、実際にはうまく機能していないと思うことがここ数年で、そのような日々感じていた「多様性」という理念の空転を、このたびの開会式で強烈に突きつけられた思いでした。
 そんなことを考えていたおり、今度は「メンタリスト」のDaiGoが「ホームレス」をめぐる発言で炎上。DaiGoのことはほとんど知らないけど、高校生が何回か口にしているのを聞いたことはあります。調べずに言っていますが、おそらく高校生や大学生からの支持を得ているのでしょう。
 思い出すのは、2019年10月に台風が来たとき、台東区で路上生活者に対する避難所の受け入れ拒否がなされた、というニュース。この問題は当時から気になっていて、自分の普段の仕事でも少し扱ったりもしました。

 DaiGoの発言は、すでにさまざまな指摘があるとおり、非常に問題のある発言だと思います。とくに「(ホームレスは)どっちかと言ったらいないほうがよくない?」という発言などは、社会の側から明確に批判すべきたぐいのものでしょう。とは言え、他方、残念ながらと言うべきか、DaiGo的な物言いにリアリティを感じてしまうのも、実は正直なところです。それはやはり、自分が接する中学生・高校生・大学生にも、少なからず似たような感性を見出してしまうからです。これはDaiGoの影響力が強い云々という問題ではなく、むしろ、そのような発言がウケるような土壌がすでに広がっている、という問題です。だとすれば、社会的な「ノー」を突きつけることが大事であると思う一方で、TwitterでいかにDaiGo個人に「ノー」が表明されたとしても、それ自体ではDaiGo的なもの支える土壌は根本的には変わらない、という気持ちもあります。もっとも自分の役割はむしろ、10代なかばがDaiGoに対する批判の言説を目にしたときに、その社会的な「ノー」のほうにこそリアリティを感じるような土壌を作ることだと思っているので、その意味では両面からのアプローチが必要だとは思います。

「税金は払っているんですか?」

「多様性」をめぐる問題に引きつけると、例えば、ここ数年の中学生・高校生のあいだで、LGBTに対するいちおうの理解は進んでいるとは思います(ただし、ここでの「理解」はまだまだ表面的なものだと思うし、なにをもって「理解」なのかという社会的な議論もまだまだなされる余地があると思います。個の尊重/権利の獲得/法的整備?)。小学校の現場などはちゃんと調査していませんが、ここ数年の「シティズンシップ教育」方向の成果でもあるのでしょう。その意味では、まあ《寛容》と言える態度が見られもします。しかし、その一方、障害・貧困・外国人に対しての差別的な言動を見聞きもします。もし、このような傾向があるとするなら、なぜLGBTには寛容で、障害・貧困・外国人には排除的なのか。
 僕の実感では、キーワードは《メンバーシップ》。というのも、僕が中学生・高校生・大学生らと議論していて、以前からけっこう感じていたのは、彼らが《税金を払っているか/払っていないか》ということをやけに気にしていること。「税金は払っているんですか?」みたいなことがしばしば議論に入ってきます。つまり、彼らのなかには《メンバー》の一員になる条件として「納税」というものが大きくあるようです。例えば、性的マイノリティであったとしても、税金というかたちで義務を果たしていれば、そこにはなんの文句もない。むしろ、税金を払うのが困難な、障害者・貧困者・外国人といった人たちのほうが攻撃の対象になる。――この感じ、非常にリアリティがあります。実際、上記ニュースの路上生活者に対する避難所拒否の問題も、「区民のための施設」という名目の下で拒否されているし、また、当時の一般コメントにも「税金を払っていないから仕方ない」というものがあったことを記憶しています。だとすれば、現在言われているところの「多様性」とは、《メンバーシップ》の編成の仕方が多少変更されたに過ぎない表現なのかもしれません。
 あるタイプの人々にとっては、《税金を払っている/払っていない》というのが、かなり強い線引きとしてあるような気がします。そんなことを考えつつ、この記事を書くために、DaiGoが問題発言について弁解をしている動画を見ていたら、まさに次のような発言がありました。

僕を叩いている人よりも、僕は彼ら(「ホームレス」―引用注)のことを保護してますよ。なんでかと言うと、税金めちゃくちゃ払ってるから。たぶんそこらへんのアンチの人たちよりも、これたぶんアンチは図星になると思うんですけど、はるかに税金を払っていて、僕は別に税金の使い途を決めれる立場にないので、残念ながら僕が払ったたくさんの税金っていうのは他の人よりも比率が高いから、生活保護だったりとかホームレスの人にまわる可能性が非常に高い。だから、ホームレスの人権がああだこうだと言っている人よりかは僕助けてますんで。実際、僕別に税金ちゃんと払ってるんでね、そういう意味で言うと、残念でしたというところだし。

 まさに、この思考の型。ここでDaiGoは、高い税金を払っていることを理由に自分を正当化しているわけですが、見逃せないのは、むしろその発想が、税金を払っていないとされる「ホームレス」に対する差別意識の根拠にもなりうる、ということです。
 職業柄かもしれませんが、僕はこのリアリティはつかんでおこうと思っています。というのも、例えば今回の件については、まっさきに普遍的な人権概念から批判したくなるわけですが、DaiGoのリアリティからしたら、上記の「ホームレスの人権がああだこうだと言っている人よりかは僕助けてますんで」という物言いに回収される。これも、非常にありがちな、というか、目に浮かんでくる反論です。意見交換をするなら、もっと相手のもとに踏み込む必要があるでしょう。

《合理性》を超えた《共感》へ

 DaiGoの問題発言に対する反論は、いくつかの観点からできます。例えば、上記の人権をめぐる議論。ありうるし、その歴史性まで含めて大事だと思っていますが、「多様性」と同様、そのまま使ってもあまりにも理念先行になるのと、一部の人にはほとんどアレルギー的な拒否反応がある印象も。あるいは、「あなたもなにかのきっかけで貧困に陥るかもしれない」という反論。ありうるでしょう。ただ、どのくらい実感が持てるかが不安なところと、究極の自己責任論者だったら、自分が貧困者になることも自業自得として捉え、他人を支える動機づけにはならないのかもしれない。では、DaiGo的なリアリティに届くのはどのような言い方なのか。
    のちの弁解動画でDaiGo自身が言っていたのは、「生活保護も弱者のためにあるわけではない。弱い立場の者に保障をすることで不満を解消し、中流以上の生活を守る機能がある」(意訳)といったことで、これもかなり(強者側である)自己中心的な視点で論理展開されていますが、まあ、社会的に恵まれている人も含め社会全体にとって合理性がある、という(ひろゆき的な)説明の仕方。DaiGoの言い方はあまりにも強者中心に過ぎますが、「社会全体」という視点が入ってくれば、まあこれは妥当だと思います。ジョン・ロールズの「無知のヴェール」概念(自分がどの立場かわからない状態での共感)もあわせて考えれば、いままで述べたいくつかの論点を総合したかたちで、社会全体の議論としてみんなで考えられる気がします。
 しかし、それでもまだ足りない気がします。「自分もそうなるかもしれないから」「自分の生活を守るため」「自分の社会を守るため」――そのような《合理性》の枠内で考えている限りは、そこには、見返りを求めるような主体しかありません。そうすると、どこかであの《納税の論理》が顔を出します。「〇〇しているからいいだろう」「〇〇していないあいつはだめだ」といったかたちで。「〇〇をしている/していない」ではなくて、その存在をその存在のままに認められるような、次元の高い《共感》は、自分中心の《合理性》とはまったく別のところで発生すると思います。《メンバーシップ》の論理はとても強固です。普遍的な人権意識を唱えているつもりでも、《メンバーシップ》の問題を語っているに過ぎない、というケースも多々あります(ロールズ・サンデル論争)。人権派がそのようなかたちで不信感を持たれている、ということについても正直共感するところはあります。というか、わたしたちの認知の仕方を踏まえた場合、《メンバーシップ》の問題から完全に自由になることは不可能なのかもしれません。「自分以外の人のことも大事に思うのだ」、ではその「大事に思う」べき人は、どのような《メンバー》からなっているのか。この《メンバーシップ》の感覚に対して意識的であるべきだと思います。
 ここ数年の実感で言うと、この《メンバーシップ》をめぐって、税金(そして、税金を払える《能力》)というイシューがヘンに存在感を持っているように思います。直感的には、教育もその一因を担っているような気がします。それは、いまの学校が納税の大切さについて教えているとかそういうことではなくて、もっと根本的に、学校が「〇〇をしたら評価される」という基礎論理で動いている、ということです。そして、その論理のわかりやすい例として、納税の話が出やすくなっている印象です。「やることをやってから言いなさい」「権利と義務はセットだ」「〇〇してから文句を言いなさい」といった紋切りというか定番のフレーズがあります。それ自体でとりわけ問題がある言い方だとは思いませんが(「いちいちうるせえな」とは思いますが)、そのような物言いがナチュラルに、「やることをやっていない人」「義務を果たしていない人」「〇〇していない人」に対する攻撃性に反転している可能性を感じます。厄介なことには、頑張っている人ほどそのような攻撃性を持つのかもしれない。
 ここに書いたような問題意識のある自分は、上記の定番フレーズなどは安易に使いません。とは言え、学校システムにいる時点で、「〇〇をした人に対して評価する」という体系に乗っていることは自覚しています。「ホームレス」についても生活保護受給者についても、「努力不足のわけではない。本人の努力ではどうにもならないから目を向けるのだ」と言えたらある意味シンプルなのですが(そこは出発点ではあるのですが)、このような物言いは、今度は「努力をしない人」への攻撃に反転します。人権は「努力していない人」「がんばらない人」「能力がない人」にも、当然のことながら適用されます。ここが肝要です。しかし、学校という場所が「○○をした人に対して評価する」場所である以上、このような主張をすることのしらじらしさというかちぐはぐさをどこか感じなくもありません。
    いまのところ、努力せずがんばらず能力がない、そんなありのままであることを評価するような制度的な仕組みは思い当たりません(また、学校システムにそれがどこまで必要かもわかりません。社会には必須だと思いますが)。少なくとも当面は、行為=評価の等価交換の論理で行くしかないと思うけど(能力主義を前提にせざるを得ないところが本当に悩ましいのですが)、ただ、それとは別に、あるいは、その根底に、「〇〇をしたから認める/〇〇をしていないから認めない」というかたちではない、利他的な《共感》を育むことに目を向けなければいけないと思います。今回のDaiGoの一連の話にいちばん欠けていたものは、まさに利他的な《共感》でした。とは言え、これは彼ひとりの問題ではなく、僕としては、教育の問題として捉えたいと思っています。

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