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『M-1グランプリ』とお笑い民主主義

※この記事は、2014年11月、同人誌『F vol.14』への寄稿した記事を転載したものです。

はじめに――『M‐グランプリ』と「ゼロ年代」

 ある時代を任意に切り取って、そこにその時代特有の空気なり欲望なり傾向なりを読み取るのはいったんやめにしよう。いわく、「虚構の時代」(見田宗介)「動物化の時代」(東浩紀)「不可能性の時代」(大澤真幸)「リトル・ピープルの時代」(宇野常寛)など……。見田の見解がひとつの源流にもなっているだろう、この手の区切りかたは、社会に対する一定の見通しの良さを提供する一方で、「○○の時代」が粗製乱造された時点で、結論先取りの安易な分析装置と堕してしまうおそれがある。今回、「ゼロ年代」特集を考えるにあたっては、この罠から逃れたい。丁寧な言説研究やジャンル内の論理をしっかりと捉えることが重要である。
 したがって、このように言おう。バラエティにおけるゼロ年代とは、端的に『M‐1グランプリ』が開催されていた時期である、と。『M‐1グランプリ』(以下、『M‐1』)は二〇〇一年~二〇一〇年まで開催されており、まさに「ゼロ年代」を貫いて存在したお笑いコンテストである。ゼロ年代とは、『M‐1』というコンテンツが覇権を握った時期に他ならず、その意味で、バラエティにおける「ゼロ年代」の姿は、『M‐1』を分析したのちに見出すべきものである。荻上チキは以前、『爆笑オンエアバトル』(以下、『オンバト』)に触れながら、次のように述べていた。

複数の「芸人」がプレゼンス(露出機会)を競い合い、新世代のお笑い芸人を求めている観客や視聴者が、その「バトル」の観覧を通じて、お気に入りの芸人を見つけ、応援していく。こうした〇〇年代的な「お笑い」の特徴は、「キャラ戦争」という言葉を使って読み解くことができるだろう。(注1)

 荻上の見方はおそらく正しい。このような見方はほとんど誰もが共有していることだろう。ただし私見では、ゼロ年代の「キャラ戦争」的なありかたは、『M‐1』的な思想のもとに育まれたものである。『オンバト』ではなく『M‐1』であることを強調することが重要である。なぜなら、お笑いにおける『M‐1』の位置づけを考えることは、現在的なお笑いを歴史的に振り返る視点を提供するからである。

 もともと『M‐1』は島田紳助と松本人志の会話のなかから生まれたとされるが、元型となる構想は、松本が以前から語っていた。

うーん、こうなったら、いっぺん、このへんでハッキリさせてみてはどうだろう。いま、第一線で活躍しているコメディアンも全部集めて、それぞれのネタで正々堂々と勝負してみるのだ。同じ舞台で、同じ客、同じ持ち時間で、カブリ物、小道具いっさいなしの、大イベントである。(注2)

 松本は、なにを「ハッキリ」させたかったのか。それはもちろん、芸人の実力を、である。そのこと自体は真っ当な欲望だと言えるが、重要なことは、松本が芸人の実力を「ハッキリ」させたいと考える、その文脈である。というのも、引用した発言が収録されている『遺書』で松本がくり返し標的にしているのが、芸人の世界における徒弟制度だからである。とくに顕著なのは、その後盟友になる島田について言及した部分である。

紳助・竜介に憧れて、この世界に入ろうと思ったオレだが、島田紳助の弟子になろうとは思わなかった。弟子になってしまうと師匠を抜けないような気がしたし、同じ線上で勝負したいと思ったのだよ(カッコイイーッ)(注3)

 松本は、徒弟制度と年功序列によって実力が隠蔽される構造を敵視する。松本が紳助を尊敬するのも、「このままではサブロー・シローやダウンタウンに勝てない」と、新人の実力を堂々と認めた点にある。松本が構想した『M‐1』は、芸人がその実力を〈平等〉に発揮できることに意義があり、そこには徒弟制度の否定という思想が潜んでいる。キーワードは〈平等〉性である。「単純におもしろいヤツを決めるコンクール」という島田のコンセプトも〈平等〉性を共有している。人気や知名度に関係なく、実力が〈平等〉に審査されるという点に、『M‐1』の特色があるのだ。このような、芸のまえに誰もが〈平等〉である、という実力主義的な態度が、他ならぬ松本によって強く表明されたのは興味深い。なぜなら、松本こそは、吉本総合芸能学院(NSC)の第一期生だからである。本稿の結論を先に言えば、『M‐1』の思想、ひいてはゼロ年代におけるバラエティの思想とは、〈学校〉的な思想なのである。
 そもそも芸人の世界は、〈学校〉と縁遠いものであった。例えば、江戸川乱歩『孤島の鬼』(一九二九)には友之助という少年軽業師が登場するが、友之助は、作中の諸戸道雄によって次のように説明される。

「この子は芸名を友之助っていうのですよ。年は十二だそうだけれど、発育不良で小柄だから十くらいにしか見えない。それに義務教育も受けていないのです。言葉も幼稚だし、字も知らない。ただ芸が非常にうまくて、動作がリスのように敏捷なほかは、智恵のにぶい一種の低能児ですね。しかし、動作や言葉に妙に秘密的なところがある。常識はひどく足りないが、そのかわりには、悪事にかけては普通人の及ばぬ畸形な感覚を持っているのかもしれない。いわゆる先天的犯罪者型に属する子供かもしれないのです。今までのところ、何を聞いても曖昧な返事しかしない。こちらのいうことがわからないような顔をしているのですよ。」(注4)

 友之助における芸の質の高さは、「義務教育」を受けていないことと並列して語られる。小沢昭一が「日本の芸能史は、賤民の芸能史である」(注5)と指摘するように、〈学校〉を筆頭とする社会からはじかれた者が生きる世界が、芸人の世界だとされていた。爆笑問題の太田光も「芸術とは個の表現であり、人類が社会を創り、そこで集団生活をする上で必要になったルールや倫理といったものがすくいきれなかった部分、あるいははじき飛ばされた感情などの表現」あると述べつつ、「芸人とは、そういう世界に住んでいる住人であると私は思っている」(注6)と書いている。徒弟制度とは、まさにそのような、社会からはじかれた者たちによる結びつきに由来している。兵藤裕己が言うように、「○○亭、○○家、○○軒、○○斎といった芸人の亭号とは、ようするに血縁や地縁をはなれた者たちの家」(注7)のことなのだ。芸人の世界とは、社会からはじかれた者たちの世界である。社会からはじかれた者が秘技としての芸を師匠から教わって、辛うじて生きていくのである。友之助が「動作や言葉に妙に秘密的なところがある」と語られているのは、その意味で象徴的だ。もちろん松本自身も、「家は貧乏、勉強最悪、スポーツ苦手、そんなオレを助けてくれたのが「笑い」なのである」(注8)と語るように、社会からはじかれた者のアイデンティティを持って「笑い」を志している。しかし、松本は同時に、芸人の世界における閉鎖性を批判する存在であった。
 このような芸人の世界を一般社会に開いた存在として、古くは秋田實が挙げられる。ここで秋田論を展開する余裕はないが、漫才の標準語化、漫才の「ホーム・ドラマ化」など、戦前~戦後の秋田は、漫才を非‐社会的な領域から開放することを目指した(注9)。ここで重要なことは、漫才を社会に開いた秋田が、のちのNSCにつながる「漫才学校」を開設していたことである。非‐社会的な領域を社会に開いていくときに必要となるのは、誰もが〈平等〉に受けることができる民主的な教育機関である。標準語の台本を書き、漫才を体系化し、一貫した教育制度を構築することによって、芸は秘技から開放される。そして、生徒は芸の教育を〈平等〉に受けることによって、誰もが〈平等〉なお笑いプレイヤーとなることができるのだ。言わば、封建主義的発想から民主主義的発想への転換である。もともと東大新人会にいた秋田實が、例えば講座派的な問題意識をもって漫才に関わっていたかどうかは不明だが、そういう点からも興味深い試みである。
 NSC第一期生である松本の発想は、まさにこのような、〈学校〉的で民主主義的な立場に根差している。いや、実力至上主義という意味では、新自由主義的とすら言えるかもしれない。〈学校〉的に言えば、演者は先輩/後輩の関係こそあれ、みな一生徒である。演芸場からテレビに移行しつつあったお笑いは、このように徒弟制度から実力主義へとゆるやかに舵を切った。ゼロ年代における『M‐1』の隆盛は、このお笑い民主主義の全面化と見るべきである。
 松本が構想していたお笑いコンテストは、「同じ舞台で、同じ客、同じ持ち時間で、カブリ物、小道具いっさいなし」とされるが、このフォーマットは、ほとんどそのまま『M‐1』に持ち込まれていると言える。徹底的に基準を揃えることで、評価を一義的にし、それを点数としてアウトプットするのは、極めて〈学校〉的なシステムだと言える。この〈学校〉的な評価システムを導入することで、人気や知名度とは無関係に、新しい個性を発見できるのである。お笑い芸人のサンキュータツオは、二〇〇九年の『M‐1』(優勝はNON‐STYLE)について、「新しさを牽引してきた『M‐1グランプリ』っていうもので、新しさを見せたいっていう人たちと、いや、そうは言っても規定演技だからっていうフィギュア・スケート型の人たちの戦いだった」(注10)と振り返っていたが、「新しさ」と「規定演技」という対立自体が、〈学校〉的な評価システムのなかで見出されるものなのである。
 くり返すが、バラエティにおける「ゼロ年代」とは、『M‐1』が開催されていた時期である。そしてそれは、バラエティ空間が全面的に〈学校〉化し、全面的にお笑い民主主義化したことを意味する。先の荻上は、「〇〇年代は『オンバト』以降、「キャラ要素」と「バトル要素」をますます先鋭化させていく」と指摘していたが、ゼロ年代のお笑いにおける「キャラ要素」と「バトル要素」も、この『M‐1』的な〈学校〉化からそれぞれ派生したものだと考えたほうがいい。松本は、のちに『M‐1』となる構想の直後に「よーし、それなら大喜利という手もある。同じお題で、アドリブの勝負である」(注11)とも言っている。これがのちに、『一人ごっつ』『松ごっつ』を経て、『IPPONグランプリ』に結実することは言うまでもない。共通の問いを発して、各々に答えさせるという形式は、そのまま〈学校〉における発問のかたちを取っている。マキタスポーツは、このようなお笑いの競技化について次のように述べる。

お笑いの競技化は、ただ声の大きい奴ではなく、クラスの隅っこでひっそりと絵を描いて、面白いこと考えているような文系の奴をフィーチャーした。(注12)

 マキタが、ここで図らずも「クラスの隅っこ」と教室の比喩を使っているのが興味深い。〈学校〉では、声が大きい生徒も小さい生徒も、明るい生徒も引っ込み思案な生徒も、勉強が得意な生徒も苦手な生徒も、平等な位置を与えられなくてはならない。そのような勧化に基づいて、例えば、出席番号や整列された机などが設計されている。〈学校〉では、生徒に形式的な枠をはめ込むことで、生徒のポテンシャルを引き出すことが目指される(これは、行き過ぎればもちろん不自由な管理教育になる)。松本がプロデュースする『IPPONグランプリ』では、バカリズムが脚光を浴びることになったが、バカリズムなどはまさに、任意のフォーマットを設定されることによって見出された存在である。この構造は、荻上が「キャラ要素」として例示する『エンタの神様』『爆笑レッドカーペット』などでも共通する。任意のフォーマットを設定して、芸人たちに平等な位置を配分することで、その芸人は「キャラ」として見出されるようになるのだ。フォーマットを揃えることで新規参入の敷居を下げるという方法論は、『M‐1』とまったく同じ発想である。「キャラ要素」と「バトル要素」の先鋭化は、同じ思想のもとで育まれている(注13)。ゼロ年代は、『M‐1』のような「バトル」の実力で見出される芸人もいれば、『エンタの神様』のような「キャラ」の印象で見出される芸人もいた。南海キャンディーズやオードリーなどは、『M‐1』という「バトル」の場で「キャラ」が印象付けられたハイブリッドである。その意味で彼らは、〈学校〉化したゼロ年代のバラエティ空間を代表する存在と言えるかもしれない。宇野常寛は、ゼロ年代のバラエティの特徴のひとつについて、次のように述べる。

たけしや松本のようなビッグネームには(いまのところ)なれていない若手芸人たちが、この番組=ゲームをプレイすることで、潜在力が発揮されて魅力的に映り、視聴者の心をとらえていく、という仕組みになっている。(注14)

 この指摘は、本稿の議論と重なるものであり、同意できる。ただ、立場が異なるのは、続く宇野が、それを「ここでは完全に時代ごとのカリスマ芸人が体現する「物語」が失効している」と時代的・環境的な要因に還元することである。このような図式的な理解をしてしまうと、引用部のように、ビートたけしと松本が、あるいは下手をすれば、それ以前の演芸小屋の芸人まで、すべて前時代的な「カリスマ芸人」としてひと括りにされてしまう。深見千三郎とビートたけしはもちろん違うし、たけしと松本も違う。とりわけ本稿の立場からすれば、松本の特異性を捉えることが重要だ。現代的な「ゲーム」の空間を用意した筆頭こそが松本であり、その背後にはNSCという制度が存在している。しかも、その制度の淵源には、左翼青年だった秋田實の存在がある。時代的な要因はもちろん無視できないが、むしろ歴史的な視座とジャンル内の経緯をつかむことが重要だろう。

〈学校〉化するバラエティ空間

 さてここまで、松本が推し進めるお笑い民主化について、『M‐1』『IPPONグランプリ』といったマクロな制度の面から述べてきたが、それはミクロな振る舞いの面においても同様である。秘技ではありえなくなったお笑い芸人の振る舞いは、反面、誰もが実践可能なマニュアルとしても機能する。それは、一般視聴者にとっても同様だ。お笑い芸人のマキタスポーツは、「一般人の「プチ松本人志」化」ということを指摘しながら、一般人が「噛む」という言葉を使うようになったことについて、次のように述べている。

「噛む」は失敗を表す言葉なのですが、あくまでお笑いのルールの中での話にしかすぎません。本来、一般人が日常生活の中で何か言おうとして失敗しても、大した問題ではないはずです。でも、そこでお笑いのルールを人々が共有してしまった。(注15)

意識的であったかどうかはともかく、松本がおこなったのは、「お笑いのルール」の教科書を配ったことだったと言える。もちろん、芸人の口調を一般人が真似るのはいつの時代もあっただろう。とくに、『オールナイトニッポン』のパーソナリティであった時代のビートたけしは、松村邦洋を筆頭に感染者を多く出した。しかし、バラエティ空間そのものが民主化しつつあった時代にあっては、「お笑いのルール」の汎用性は極めて高かった。とくに印象的だったのは、九〇年代後半、『HEY! HEY! HEY!』において、ダウンタウンがアーティストとフリートークを繰り広げていたことである。とくにT・M・レヴォリューションなどは、お笑い芸人顔負けのトークを発揮していた。あるいは、トークが達者でないゲストであっても、ダウンタウンが彼らを〈いじる〉ことで、バラエティ番組として成立していた。この頃から『HEY! HEY! HEY!』は、だんだんトーク番組としての性格を強めることとなる。加えて言えば、最初はクイズ番組の形式であった『ダウンタウンDX』がトーク番組になるのも、九〇年代後半のことである。演芸場における芸とは異質な、例えアーティストであっても参加可能な、民主的なトーク主体のバラエティ空間が、ゼロ年代を迎える頃には成立されるのである。視聴者はこのような光景から学んで、それを自分たちの日常に応用する。とくに、様々な人に〈平等〉に立場を与えるべき〈学校〉空間においては、ダウンタウン的「お笑いのルール」は、非常に有効性が高かった。個人的な思い出で恐縮だが、筆者は、目立たないクラスメートが、〈いじり〉によって「キャラ」を見出されていく様子をいやというほど見てきた(ときには、それに関わってきた)。もちろん、「ルール」は万能薬ではないので、それが幸福な結果をもたらすとは限らない。〈学校〉における過剰な「ルール」主義は、マキタが触れていたように、一般人が「噛む」を取り締まるようなウザい抑圧を生むこともある。あるいは、バラエティ空間においても、「ルール」がはっきりするからこそ、実力差が歴然となるような場面もあるかもしれない。とは言え、ゼロ年代を迎える頃のバラエティ空間が〈学校〉と歩みを揃えていたのは、おそらくたしかである。〈学校〉的思想を持つ『M‐1』が、このようなバラエティ空間の文脈のなかで始まることを見逃してはならない。この時代は、江戸川乱歩の時代のように、芸は「義務教育」の外にはじかれたものではありえないのだ。そして、その流れを牽引したのが、尼崎という地域の出身であり、NSCの一期生である、松本及びダウンタウンであることは、極めて象徴的なのである。
 バラエティ番組は基本的に多様化している。しかし、松本=NSC的な〈学校〉化は根強い。とくに、ゼロ年代は。「噛む」など芸人同士で使われる言葉は、芸人の世界を飛び出して〈学校〉及び一般社会に流通した。そのなかで気になるものに、「正解/不正解」という言いかたがある。例えば、『M‐1』優勝経験もあるNON‐STYLEの井上裕介は、目標にしている芸人のひとりに爆笑問題の田中裕二を挙げて、次のように語る。

どんどんボケる太田さんに対して、端的にツッコんで行くんですけど、あれって実は一番難しいことなんですよ。あのやりとりで笑いを取れるっていうことは、全部の間とツッコミの言葉が正解してるってことですから、すごいなぁって。(注16)

「バトル」として先鋭化した『M‐1』において、「規定演技」(サンキュータツオ)路線で優勝を達成したNON‐STYLEが、「正解」主義的な面を強調しているのが興味深い。「正解」主義とは、もちろん〈学校〉的な発想である。ここでは、〈正しい振る舞い〉と〈正しくない振る舞い〉が選別されているのだ。とは言え、このような物言いはむしろ、明石家さんまの影響も強いのかもしれない。ちなみに、田中の相方である太田は、『笑っていいとも!』で「いまのは~っていうパターンだろ!」という発言をしたことについて、「さんまさんを頂点とする吉本芸人風のツッコミをしちゃったなってちょっと反省した」「さんまさんを教科書とするパターンをやって、流してしまった」と後悔気味に語ったことがあった(注17)。さんまは、落語家出身で亭号も持ちつつも、タレントとしてテレビに生きることを選んだ人である。徒弟制度から出発しつつ、そこから抜け出したという点で、さんまは松本に似た二重性を持っている。そのさんまが、やはりお笑いの教科書を配っていることの意味は深いと言える。
 現在、このような〈学校〉化したバラエティ空間のなかで成果を挙げているのは、ダウンタウンの後輩筋である、雨上がり決死隊がMCを務める『アメトーーク!』だろう。「メガネ芸人」に端を発する、「○○芸人」という枠付けをおこなって以降の『アメトーーク!』は、枠を与えることによるキャラ付け(による若手登用)、適度に「お笑いルール」に則ったトーク、その「ルール」化で発揮される芸人の発想など、〈学校〉の特色がふんだんに活かされている。共通のお題によるトークという点では、『ダウンタウンDX』『踊る! さんま御殿』も挙げられるが、「キャラ」の発掘がシステムとして機能している点で、『アメトーーク!』が先を行っていると言える。
これらトーク番組と〈学校〉を比較したとき興味深いのは、抽象的な理念のみならず、具体的な空間設計の水準で〈学校〉との類似性を指摘できることである。とくに、MCが他の出演者を見渡すことができる構造は、教師と生徒の関係そのままである。その出演者が座っているひな壇も、整然と並べられた教室の座席を思わせる。重要なことは、出演者=生徒のスキルを〈平等〉に発揮させるべく、MC=教師が出演者=生徒を一望できることで、これがベンサムの一望監視施設に由来することはよく知られている(注18)。「〈学校〉化するバラエティ空間」ということを言ってきたが、バラエティ空間は、細部に至るまで〈学校〉空間をモデルにしているのだ。そして、このような空間に開かれている限り、あとはお笑いマニュアルをしっかり勉強していれば、アイドルでも俳優でも、芸人的コミュニケーションをおこなうことが可能なのである。お笑いマニュアルについては、『アメトーーク!』自身が、「ひな壇芸人」「芸人ドラフト会議」などで開陳している。もちろん、お笑いマニュアルを日々猛勉強している芸人と渡り合うことは、なかなか難しいのだろうが。
 このように、〈学校〉とバラエティは、かなり密接に関わりを持っている。このこと自体は、誰もがうすうす感じていることだろう。そのなかで、筆者が両者の密接な関わりをいよいよ感じたのは、『アメトーーク』のプロデューサーである加地倫三の、次の言葉を読んだときだ。加地は、矢部浩之が新年会の司会をしたときの様子を次のように語る。

まず、矢部さんは積極的に遠くにいる人をイジっていました。(中略)矢部さんはあえて遠くの人にまで目配りし、声をかけることで、会場全体を巻き込んでいったのです。遠くが盛り上がれば、会場全体が盛り上がるというわけです。
 さらに、その場の「キーマン」を素早く見つけ出して、その人をイジり始めました。(注19)

 引用部では「あえて遠くの人にまで目配りし、声をかける」という矢部のテクニックが紹介されているが、これは、実際に筆者が教育実習で教わった授業上のテクニックとまったく同じものである。担当の先生いわく、遠くが盛り上がれば、教室全体が盛り上がるのだ、と。また、「キーマン」いじりについても、「立場(が)強いやつ(を)使って、いい方向にもっていくようなときもあるなあ。そのほうが流れがスムーズなんだよ」(注20)という現職教員の学級運営のやりかたと同様の方法だと言える。すぐれた教員の資質とすぐれたMCの資質は、具体的な振る舞いの水準で一致しているのだ。このようなMCを求めるバラエティ空間は、まことに〈学校〉的である。

おわりに――〈学校〉化したバラエティのゆくえ

 ゼロ年代のバラエティ空間は、〈学校〉化している。注意したいのは、本稿の主張が、学校がバラエティ空間化して、現代社会に生きる私たちがキャラ化している、ということではない、ということである。あくまで、バラエティ空間の〈学校〉化の話をしているのだ。その点を注意しなければ、本稿はコミュニケーション論の一事例になってしまう。本稿の主眼はあくまで、秋田實の「漫才学校」の延長上にあるNSCというお笑いの〈学校〉が、松本人志を中心としながら、バラエティ空間において全面化した、その流れを記述することである。そこに、時代性や社会性という変数が入り込んでいるのがたしかだとしても、あくまでジャンル内の論理を抽出することが重要である。もちろん、本稿において語り落としたことは多い。例えば、お笑い封建制度を崩壊させたものとして、テレビというメディアについて考えることは避けて通れない。そして、そのテレビというメディアとともに台頭してきた明石家さんまやタモリ、あるいはとんねるずのような存在は、本稿の文脈のなかでどのように考えればいいのか。また、演劇文化を出発点にしたシティ・ボーイズなどは、浅草的な演芸文化との連続で考えなければいけないかもしれない一方で、一九八〇年代のニュー・ウェイヴ文化との接点もある。初期の爆笑問題やバナナマンはこの文脈を有していたし、大竹まことを尊敬する人物に挙げる松本も、そこに接続されうる。『ヴィジュアルバム』的な試みもあった。バカリズムが『IPPONグランプリ』で存在感を示したと書いたが、『虎の門』をプロデュースしていたいとうせいこうとバカリズムの関わりも深い。こういった、おもに東京で育まれたお笑い文化の文脈については、今後の課題にしたい。
 ちなみに、バラエティ空間の〈学校〉化については批判的な見方も多い。それは、本来芸人というのは周縁的存在であり、非‐社会的な存在であることによって、批評的で変革的な力を持ち得るのだ、という立場である。例えば中沢新一は、「漫才が炸裂させる笑いには、ひそかに毒が含まれることになる」と指摘しつつ、次のように述べる。

横山やすしは早死にし、東京に出てきた松本人志は、テレビの解毒作用にやられて、いまでは息も絶え絶えだ。吉本興業の若手お笑い芸人は、雨上がりの森のなかのキノコのように繁茂しているけれど、毒を期待して食べてみても、調子がいいばかりで、しびれはいっこうにやってこない。(注21)

『アメトーーク!』への嫌味表現が目を引くが、いずれにせよ、バラエティ空間の全面的な〈学校〉化は、乱歩が描写していたような芸人の異形性をきれいに取り除く。お笑いのマニュアル化は、お笑いを方法論に還元してしまい、社会の秩序のなかに位置付ける。異形の芸人は放送コードに乗らず、地下化していかざるをえないだろう。ヤクザと交流のあった芸人は、追放されざるをえないだろう。いまやお笑い芸人こそが、社会の成功モデルのひとつになっている印象がたしかにある。そのような芸人像を好まない声は理解できると言えばできる。では、〈学校〉化された空間のなかで、異形の芸人はどのように出現できるのだろう。あるいは、〈学校〉化した芸人は、いかに異形の芸人的に出現できるのだろう。
 これはとても難しい問題だが、いとうせいこうが興味深いことを言っていた。いわく、現在、芸人のなかで「野面」という言葉が流行っている。「野面」とは、台本などもろくに読まず/読めず、ほとんど即興的にひな壇としての役割をこなすことである。そこでは、まずカメラを自分のほうに向けさせる段階から勝負が始まっており、カメラが向けられたときにいかに気の利いたことを言えるか、ということが試されている(注22)。なるほど、視聴者の目に届く以前に、芸人の異形性は発揮されているのだ。芸人としての身体性は、かなり微細な部分で発見されている。いくらマニュアルを上手にこなすとは言え、おそらくそのマニュアルを支える、マニュアルには記述できない〈外〉があるのかもしれない。バラエティ空間は〈学校〉化しているが、〈学校〉の論理では記述できない力学が働いている場所があるかもしれない。それを安易に〈身体性〉と名して神秘化することは避けたいが、この〈外〉的な空間を探ることが、『M‐1』以後のバラエティ空間のゆくえを考えるためのヒントになるのではないか、と漠然と指摘しておく。
気になるのは、有吉弘行という人が獲得しつつある不気味な異形性だ。ラリー遠田は、有吉が『アメトーーク!』を「仇名づけゲーム」に書き換えてしまったことを高く評価し、それを受けた宇野常寛も、お笑いの「ゲーム化」に対応した例として言及している(注23)。『アメトーーク!』は別に「仇名づけゲーム」の番組になったわけではないのだから、このラリーの指摘もよくわからないのだが、他方、宇野の解釈も疑問である。というのも、「ゲーム」の書き換えそれ自体は、「ゲーム」の論理からは出てこないからである。「ゲーム」の書き換えについて指摘するためには、「ゲーム」の水準とは別の水準に言及しなければならない。
 一見、〈学校〉的に動いているバラエティ空間のなかで、〈学校〉のルールは不安定に揺らいでいる。有吉は学生時代、積極的に「奇行」に走っていたという(注24)。義務教育からはじかれる周縁的存在でもない、島田紳助のような〈学校〉のルールにおさまらないヤンキーでもない、お笑い民主主義によって見出される「中学の時イケてない芸人」でもない、〈学校〉化された空間で「奇行」に走る有吉的なありかたに、ポスト〈学校〉化の萌芽を感じる。

  注
(1)荻上チキ『社会的な身体――振る舞い・運動・ゲーム』(講談社現代新書)
(2)松本人志『「松本」の「遺書」』(朝日文庫)
(3)前掲注2。
(4)江戸川乱歩『孤島の鬼』(創元推理文庫 一九八七・六)。
(5)小沢昭一『私は河原乞食・考』三一書房 一九六九・九、引用は岩波現代文庫 二〇〇五・九)。
(6)太田光「破壊者」『TVブロス』二〇〇六・七、引用は『トリックスターから空へ』ダイヤモンド社 二〇〇六・一二)。
(7)兵藤裕己『〈声〉の国民国家――浪花節が創る日本近代』(NHK出版 二〇〇〇・一一、引用は講談社学術文庫 二〇〇九・一〇)。
(8)前掲注2。
(9)秋田實の試みについては、富岡多恵子『漫才作者 秋田實』(筑摩書房 一九八六、平凡社ライブラリー 二〇〇一・四)に詳しい。例えば、富岡は次のように述べる。「秋田が「無邪気な笑い」を求めたのは、当時の「万才」小屋が家族づれや女がひとりで入っていける雰囲気ではなかったからだった。そこは、ひと時の気晴らしに、ドギツイ笑いを求めるところだった。秋田は、母親といっしょにいっても、顔を赤らめることなく笑える漫才を理想とした。(中略)「無邪気な笑い」は、笑いのホーム・ドラマ化といってよいだろう。家族がつれだって、恥ずかしがらずに、テレないで思い切り笑えるテーマといえば、スポーツの話題とかとりとめない家族のストーリーしかない。つまり、結婚であり、家庭であり、子供である。(中略)いわば、中産階級的な安心のなかに、つくりあげられる余裕(遊び)であるといえる。/秋田とエンタツは「無邪気な笑い」を、おたがいの求める笑いの焦点としたのだが、それは「萬歳」および「万才」のもつアウトサイダーとしての性格を修正して世間の内側にもってくることだった」。
(10)「緊急特番〝M‐1グランプリ居酒屋〟2009」(ポッドキャスト版『東京ポッド許可局』二〇〇九・一二・二一配信)。
(11)前掲注2。
(12)二〇一一年八月二八日『大東京ポッド許可局』におけるマキタスポーツの発言。
(13)もっとも、この形式を意識的に実践していたのは、『笑点』の初代司会者である立川談志である。談志は『笑点』を始めるにあたって、着物の色を指定し、キャラとしての振る舞いもこだわって指定したと言われている。したがって、ゼロ年代という地点から『笑点』という番組を振り返ることは意義深い作業になるのかもしれないが、本稿では指摘にとどめておく。
(14)宇野常寛・濱野智史『希望論――2010年代の文化と社会』(NHKブックス 二〇一二・一)。
(15)槙田雄司『一億総ツッコミ時代』(星海社新書 二〇一二・九)。
(16)『splash!! Vol.2』(二〇〇九・一一)のNON‐STYLEインタビューにおける発言。
(17)TBSラジオ系『火曜JUNK 爆笑問題カーボーイ』(二〇一二・九・二五放送」における発言。
(18)ミシェル・フーコー、田村俶訳『監獄の誕生――監視と処罰』(新潮社 一九七七・八)。
(19)加地倫三『たくらむ技術』(新潮新書 二〇一二・一二)。
(20)鈴木翔『教室内カースト』(光文社新書 二〇一二・一二)。
(21)中沢新一『大阪アースダイバー』(講談社 二〇一二・一〇)。
(22)ゲンロンカフェでおこなわれた、市川真人といとうせいこうによる対談「謎解き「いとうせいこう」――ラップかた『想像ラジオ』」(二〇一四・一〇・三)におけるいとうの発言。
(23)前掲注14。
(24)有吉弘行『俺は絶対性格悪くない』(太田出版 二〇〇八・九)。

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