ここ最近のジャニーズをめぐるもろもろのことについて

 ジャニーズについていろいろと考えています。英BBCの放送以降、いろいろな動きがありました。最近ではやはり、松尾潔氏によるスマイルカンパニー契約解除の報告(告発?)と、それにともなう山下達郎氏の返答がもっぱらの話題です。このことについて、現状思っていることを書いておきたいと思います。

 前提として表明しておくと、「小山田圭吾と文学の言葉」(『今日よりもマシな明日』講談社)を書いた者としては、ジャニーズに対するTwitterでの糾弾は、たとえそれがそれなりに練られた言葉だとしても、例によってオブセッシヴな反応にしか思えず、基本的には冷ややかに見ています(この1文をもって、僕がジャニーズ擁護をしていると批判する向きもあるかと思いますが、そしてそのような発想自体は理解しますが、僕は異なる立場です)。加えて言えば、これは問題意識の違いなので仕方ないのですが、いまTwitterで言われているようなことは、個人的にはあまり関心がもてません。いや、関心はもつのですが、自分の問題意識からすると本質を外している、という印象です。このあたりは、僕自身がきちんと言葉にしなければいけないとは思っています。なんらかのかたちで文章化したいと、とりあえずいまは考えています。

 さて、松尾潔氏による契約解除の報告ですが、最初の契約解消の報告に山下氏の名前を出したことに対しては、いまだ疑問に思うところもあります。もっとも、それが片方からの視点とはいえ(この点も議論になっていましたね)、このように具体的に言葉にされることは大事だったと思います。その意味で、松尾氏の『日刊ゲンダイ』の文章などは意義深いものだったと思っています。そのうえで印象を述べるのなら、そもそも契約解除の原因の一端とされる松尾氏の発言なんて、本当にたいしたことのない一般論の延長なのであって、「義理人情」か知らないけど(僕は基本的に「義理人情」は大切だと思っているクチですが)、この程度の発言を看過できない問題だと思うこと自体が、一般的な感覚と乖離しているのではないでしょうか。

まずは記者会見を。/企業の不祥事は数あれど、文書と自社動画だけで謝罪を済ませた例はどれくらいあるのか。/「エンタテインメント業界という世界が特殊であるという甘えを捨て」る覚悟がおありなら、ジュリーさん、これを機に膿を出しきりませんか。/才能ある所属タレントの未来を守るためにも。

2023年5月14日の松尾潔氏のツイート

 この程度の発言を根拠にして契約を解消することは、ジャニーズとの関係を踏まえてもなお、合理的な判断として間違っていると思えます。その点に関しては、僕のたいしたことのない発言を無断で削除した博報堂広報室のふるまいとも重なる気がしました(むしろ、こういう合理的な判断を拒まざるえないこと自体を考えるべきなのかもしれません)。

 さて、松尾氏の契約解除の報告を受けて、山下達郎氏が自身のラジオで返答をしました。

 僕が感じたのは、とくに前半部がとても裁判への対応を感じさせる物言いだということでした。例えば、「雇用関係にあったわけではない」ことの強調、「社長の判断」であることの言及、「契約終了」の「理由」が「憶測に基づく一方的な批判」だけではないことの確認などです。このレヴェルで言えば、山下氏およびスマイルカンパニーには法的な瑕疵は見当たりません。というか、瑕疵がないように弁護士とともに応答文の内容を練っただろうと容易に想像します。率直に、放送を聴いた感じ、台本を読んでいたのだろうという印象です。
 このあたりは最近の僕の関心事のひとつで、ようするに松尾氏と山下氏の対立は《物語》と《断片》との対立です。松尾氏が《物語》側で山下氏が《断片》側です。ここで言う《物語》化とは、《断片》を因果関係でつないでいく行為のことです。松尾氏は、その文章のスタイルにもあらわれているように、今回、《物語》的に語ることで多くの共感を得ているような印象です。でも、すでに過去記事に書いたように、法的な判断は《断片》ベースで進んでいき、《物語》化に対してはかなり慎重になります。このあたりは推定無罪の原則があるので当然と言えます。過去記事「常識と陰謀論/後編」をぜひ読んでみてください。

 山下氏の応答はその意味で《断片》を積み重ねたものとしてあり、その一方で、《物語》化するような物言いに対して「憶測」と名指していた印象があります。その点、このうえなく法律的な言語ゲームだと思いました。というか、くり返しますが、弁護士と相談した台本があったのではないか。批判するにせよ擁護するにせよ、あのとき山下氏が裁判を見据えたかたちでの言葉使いをしていただろう、ということは、認識・理解しなくてはいけないと思います。
 でも、一方で忘れていけないのは、それはやはり保身の印象ばかりを与えるもので、松尾氏およびファンやリスナーに対する説明になっていない、ということです。それは、自民党政権がずっと続けていた、全然納得のいかない答弁に類似的です。法的に問題がないという一点で押し通す、あの納得のいかなさ。今回、多くの人が感じたのは、そういう納得のいかなさだったと思います。合宿所でなにがおこなわれたかを「知らなかった」にせよ、噂くらいは耳にしていただろう、その点についてどう思うのか云々。だから山下氏は、やはり利害を超えたところで松尾氏の《物語》に拮抗する《物語》を語って欲しかったと思います。たとえそれが「憶測」混じりであっても、経験と実感に基づいた応答が求められていたと思います。なんと言っても、山下氏自身が言っているではないですか。

芸能というのは人間が作るものである以上、人間同士のコミュニケーションが必須です。どんな業界、会社、組織でもそれは変わらないでしょう。/人間同士の密な関係が構築できなければ、良い作品など生まれません。そうした数々の才能あるタレントさんを輩出したジャニーさんの功績に対する尊敬の念は今も変わっていません。私の人生にとって1番大切なことは、ご縁とご恩です。ジャニーさんの育てた数多くのタレントさんたちが、戦後の日本でどれだけの人の心を温め、幸せにし、夢を与えてきたか。私にとっては、すばらしいタレントさんたちやミュージシャンたちとのご縁をいただいて、時代を超えて長く歌い継いでもらえる作品を作れたこと、そのような機会を与えていただいたことに心から恩義を感じています。

『山下達郎のサンデー・ソングブック』(TOKYO-FM、2023年7月9日放送)より

 この引用部にもさまざまな意見がありうると思いますが、個人的には正直、とくに前半部についてけっこう賛同してしまいます。山下氏の立場からしたとき、たとえ過ちを犯してしまった人や悪人であっても、その人に近しい人が、社会的な水準とは別のところで、その人のことを大事に思う、ということはあって良いことだと思います。《断片》的な事実の積み重ねとは異なった、言葉や法律では明確化されないものが、「人間同士のコミュニケーション」には必ず含まれています。だからこそ、法律の言葉は万能ではないし、反対に、人間関係には愛おしさも厄介さも含まれます。しかし、だとすればなおさら、山下氏にはその水準で松尾氏にも応答して欲しかったです。松尾氏による山下氏の応答に対する感想――「会った回数やメールの本数で〈親密さ〉を数値化するような考えかた」への疑義は、そういうことだと思います。実際、ジャニー喜多川に対しては、そういう水準で語っていないわけですから。ジャニー喜多川に向けては《物語》的な言葉を語り、松尾氏に対しては《断片》的な言葉で返すーー。この非‐対称性に対して、最後の最後、リスナーとしては山下氏の保身を感じてしまいました。したがって、両者は会話の水準がズレている(ズラされている)、という印象でした。
 僕としては、このたびの松尾氏と山下氏のやりとりに限って言えば、わりと一般的な議論の延長に見えています。もちろん、当事者にはたいへんな問題だと思いますが。他方、ジャニーズについては、現在、深い意味で《芸能》の問題として捉えられていないと感じています。いったんしっかりと《芸能》の問題として向き合わないと、結局は政治の話も社会の話もできないような気がします。僕の問題意識はその点にあるので、そこは考えていきたいと思います。いまこそ、『ジャニ研!』(原書房)、『SMAPは終わらない』(垣内出版)、『コミックソングがJ-POPを作った』(P-VINE)、その後に『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)、『学校するからだ』(晶文社)あたりを読んで欲しいですが、力不足でなかなか真意が伝わらない心配もあります。ともあれ、ぜひ。最後、宣伝になってしまってアレですが。

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