常識と陰謀論/後編

 少しまえ、法律事務所に行く用事があり、法律家の先生に話を聞く機会がありました。そのときに印象的だったのは、法律家として「個々の出来事について違法性を指摘・確認することはできるが、出来事を並べてその関連性について違法性を指摘・確認することはできない」という姿勢が一貫していたことでした。つまり、《物語》の水準で違法性を認めることは困難だ、ということです。たしかに、いくら信憑性があろうと、恣意的な《物語》に対して司法が簡単に違法/合法を決定するとなれば、これはたいへんな権力の濫用につながりかねません。権力の暴走を抑止するためにこそ「疑わしきは罰せず」という原則があります。これはこれで大事な姿勢でしょう。
 では、いまなにが起きているのか。
 例えば、安倍晋三をめぐるあれこれ。森友学園問題では、安倍昭恵が名誉校長の小学校が安く売られ「忖度」が問題になった、さらに、森友学園問題をめぐっては公文書改ざんが起こり、そのことで自殺者まで出てしまった。この断片的な出来事を「つなげ」たとき、安倍晋三が背後で働きかけたという《物語》が立ち上がります。個人的には、このような疑惑は当然のものだと思います。しかし、安倍側からすれば、個々の《断片》だけ見ると安倍は直接的には関係ないので、結果、違法性は確認できない、ということになるのです。逆に、そのような《物語》は「反安倍」がさきだった陰謀論めいたものなのだ、と。
 安倍晋三と統一教会の関係も同様です。統一教会は悪質(反社会的)である、安倍晋三は統一教会の大規模集会にリモート登壇している、とくに第二次安倍政権下では統一教会とつながりのある政治家が露骨に重役に登用されている、そもそも岸信介のときからつながりがある……など、個々の出来事をつなげれば、「安倍晋三は反社会的な団体である統一教会とそれなりに関係している」という《物語》は成立します。しかし、「関係ない」側は、「政治家が特定の団体と関係をもつのは当たり前」というかたちで、《断片》を《断片》のまま「宙吊り」(ポストモダン用語としての)することによって、安倍と統一教会との関係の否定を、あるいは、《断片》的に関係していたとしても問題はないのだ、という主張をしていたように思えます。
 僕の感覚からすれば、森友学園をめぐる問題も統一教会との問題も、これだけ多くの《断片》が周辺に存在すれば、当然のことながら説明責任が果たされるべきものです。なぜなら、わたしたちは出来事をつなげて《物語》として捉えるのだから。僕の印象では、安倍政権は、その《物語》の水準を認めずにずっと説明を果たさないまま、《断片》の疑惑を宙吊りにしていたところがあります。本当にその《物語》が誤解ならば、自分側の異なる《物語》を提示すれば良いだけです。すなわち、説明責任を果たす。しかし、安倍晋三は、違法性がないことを盾に《断片》の宙吊りに開き直っていた印象です。これについては、権力を制限するためのシステムが権力側に簒奪された、という感触すらありました。
    さらに言うなら、とりわけ安倍政権に関しては、その反面、論敵に対して過剰に《物語》を付与し、偏見や憶測を発言していたところがあります。そのダブルスタンダードの振る舞いに信用が置けなかった人も少なからずいたでしょう。もっとも、大局的に見れば、反安倍的な立場の左派もまた、同様のダブルスタンダードがあったかもしれません。例えば、これまた僕の感覚からすれば、安倍暗殺という出来事と統一教会がおこなってきたことと安倍と統一教会の関係を同じ水準で一緒くたに語ってしまうような《物語》には慎重になるべきだと思いました。その理由は、少しまえの記事で書いたとおりです。
 ここから一般論。まず大事なことは、《断片》と《断片》を過剰につなげないことです。つまり、一般的な意味で陰謀論にハマらないようにする。現実はそれほど単純なものではない。《断片》をある程度《断片》のままにとどめおいておく冷静な態度や複雑な事象の複雑なままにとらえる態度は、大事な知的態度だと思います。ここまでは多くの人が言っているとおりです。
 ただ、その一方で、周囲(それは「大衆」と呼ばれる存在かもしれません)が抱いてしまう《物語》の水準を認識し、それに応えることも必要なことだと思います。その《物語》の水準が一般的な感覚だとすれば。ここまで「一般的」「感覚」「ある程度」といった言葉を使いました。《物語》は恣意的であるということを確認しましたが、この恣意性のなかには、「常識」「妥当」とされるものも含まれれば、「陰謀論」とされるものも含まれます。もちろん、その「常識」的な《物語》は間違っているかもしれないし、批判されるべきものかもしれません。しかし、否定的にであれ肯定的にであれ、それが「常識」であるという前提を共有する、あるいは確認し合うことは必要だと思います。批判はそのうえで粘り強くおこなわれるべきです。
 僕の問題意識からすると、現在はなにより、《物語》の水準の議論が「陰謀論」としてしか名指されないことが良くありません。もちろん、かりに「常識」という尺度を用いたとき、実際に「陰謀論」と呼ぶべき《物語》はそれなりに跋扈しているでしょう。しかし、勢い、自分と立場の異なる《物語》をすぐさま「陰謀論」と名指すべきではありません。あるいは逆に(同根のスタンスですが)、《断片》に居直ったりするべきでもありません。それらの振る舞いは、立場の違いを越えて求められるべき、常識的な《物語》の共有をますます困難にします。大事なのは、「自分からすると間違っているが、他人からみればそのような《物語》に見えるのは理解する」という程度の相手への理解と、それを踏まえて「だから、自分の《物語》を相手に説明する」という態度だと思います。あとは、これは微妙なところですが、場合によっては「そんなつもりはなかったが、そのような《物語》に見せてしまった」ことに対して責任を取る場面というのもありうると思います。そのような手続きが、違法かそうでないかという対立軸のみが重要視されるなかで引っ込んでしまった。昨今、なんの話題にせよ、すぐ「訴える」「裁判する」という話になる気がするのは気のせいでしょうか。僕からすると、それは陰謀論と《断片》のあいだの水準の語り口がないことのあらわれに見えます。一般的に「ハラスメント」と呼ばれる案件をめぐっても、被害者側が《物語》の水準で訴え共感を呼ぶ一方で、訴えられている側は《断片》の水準で否認している、というケースが多いように思います。訴えられている側からしたら難癖をつけられているようなことがあったとして、被害者側からしたら、たとえ《断片》の出来事において個々に違法性の有無が明らかになったとしても、《物語》の水準での説明がないことには、どうにも疑心暗鬼が解消されないのでしょう。《断片》と陰謀論のあいだくらいの水準の《物語》を求めたいです。
 以上、たいへんつまらない「常識」的な話ですが、つまらない話の確認です。

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