二次加害と沈黙のマインドを考える~早稲田大大学院のセクハラ訴訟の判決を受けて~

早稲田大大学院のセクハラ訴訟について、遅ればせながら、深沢レナさんが受けた被害と、大学院側のお粗末な対応にショックを禁じえません。深沢さんが少しでも早く平穏を取り戻し、名誉回復される日が来ることを祈っております。

さて。この一件は私がこれまで関わってきたミニシアターや映画界での労働搾取、ハラスメント問題とも通底する闇があると思っています。さらに、「まっとうな主張をしているだけの被害者に対し、それなりに知名度のある人間が二次加害を繰り出す。あるいは、加害者の擁護をしてくる」という点も、私が見てきた景色と似ていました。
もちろん、「私と深沢さんは同じ痛みを抱えている」などとは口が裂けても言いません。心の痛みとはその人だけのものであり、他人が分かったような気になるだけでも本人を傷つけると思うからです。ただ、少なくとも加害者たちのマインド、その近しい者たちのムーブについては、分野こそ違えどおぞましいほどに酷似しています。
つまり、「社会問題については積極的に発言し、反体制的で多様性を重んじるスタンスを貫いてきた人々が、身近な事件では非常に官僚的な態度で知人を擁護する」という点です。
以下、勝手にQ&A形式で、二次加害(あるいは事件への沈黙)について考えてみました。

Q1.なぜクリエイティブ関係者や教育関係者は、身内による加害には口をつぐむのか?

A.「特別な人間」だから。

勘違いしないでほしいのですが、これは「選ばれし特別で崇高な民」みたいな意味ではありません。さすがに、そこまで自分たちのことを傲慢にとらえている人間は少数だと思います。(いないわけではありません)どっちかというと、関係性の話ですね。
クリエイティブや学問の世界で長年、月日を共にしているとそこに連帯感が生まれます。政治意識を共有している場合なんかは特に、同士の絆が深まっていくわけです。だから、仲間が告発されると「助太刀しなければ」「この人のいいことを分かってもらえていない」と近視眼的な擁護に走ってしまうんですよね。あとは、加害者が才能や実績のある人物だった場合、神格化が進んでアンタッチャブルになってしまうケースもあると思います。

Q2.加害者を擁護している人々は、「事実を把握していない」と言うが本当か?

A.確かめようがない。

なぜなら、把握していようといまいと、擁護する側は「そんな事件があったなんて知らなかった」と言うしかないからです。だって、「知っていたけど見逃していた」なんて正直に言って、自分の立場を悪くしたい人はいませんよね。逆に、それをやってしっかり反省し、問題提起をする側に立っている人たちには勇気があるということなんですが。(もちろん、一番の勇気を持っているのは、自ら告発、告白の道を選んだ被害者です。被害者はそれだけで一生分の勇気を使っていると言っても過言ではなく、その先の戦いは誰かが肩代わりしてやれよ、と思っています)
ただ映画界でいうと、僕は末端中の末端でしたが、噂レベルで大物映画監督や映画俳優の悪い話は聞いていました。証拠もなく、また聞きのまた聞きのまた聞き…くらいの情報だったので、拡散はしませんでしたが。迂闊に拡散させて、被害者にどんな影響が出るかも分かりませんでしたし。
その業界の大物が悪行を繰り返しているとき、絶対に噂はまわっています。身近な人たちが声をそろえて「知らなかった」と言っているなら、「あまりにも鈍感じゃね?」とは思ってしまいますし、ハラスメントに対する抑止力がまったくない現場だったのはほぼ間違いないでしょうね。

Q3.クリエイティブや教育機関でハラスメントが多発するのはなぜか?

A.権威化しやすいから。

前提として、ハラスメントは社会全体の問題です。「この業界は安全」「こっちは危険」みたいな話ではなく、どんな人でもどんな場所でもハラスメントは起こりえます。そのうえで、映画や演劇、文壇、芸能界、大学なんかでハラスメントが問題化しやすいのは、権威化しやすい構造があるからなんですよ。
俳優に対する演出家(監督)、タレントの先輩後輩、教授と学生など、こういった場所では所属した瞬間に縦の関係が生まれやすいといえます。そもそも日本社会は縦関係があること自体に疑問を抱く人が少ないので、所属する以上は「上の言うことは聞いて当たり前」という空気ができかねません。そうなると、権威を振りかざし、下の人間に服従させようとする奴らもわらわらわいてきます。
僕が昔いた職場も、最初は従業員同士、横の関係で仲良くやっていました。しかし、僕たち業務委託で月5万円(2カ月休みなし)のスタッフはそんな労働条件で深く関われるはずもなく、どんどん仕事量を減らすように立ち回り始めました。そうなると、仕事量の多い人間ほど「自分はこんなに頑張っているのに、あいつは家に仕事を持ち帰っていない」という意識になるわけです。そうして縦関係が生まれ、「予告なしに給料を下げる」「スタッフのミーティングに呼ばない」「忘年会の日に交通費を支給せず、前売り券の手売りに行かせる」などのハラスメント行為にエスカレートしていきました。
ある映画祭の主催は、僕たちボランティアスタッフに横柄な態度をとり続け、車のガソリン代すら払わず、最後の挨拶はお礼も言わずに片手をひらひらさせただけ。映画雑誌のバックアップを受けた有名な映画祭でしたが、簡単にいえば、調子に乗っていたわけです。
こういうことを日常的にやっている連中なので、感覚はマヒしています。自分のやっていることの善悪も分からなくなっているのではないでしょうか。

Q4.なぜ加害者を擁護したがる人間が現れるのか?

A.自分の業界が悪く言われていると解釈するから。

僕が一番映画界に対して問題提起したとき、「もっとも仲がいい」と思っていた技師に言われたのは「現場は君が思うような、悪い人間ばかりじゃない」でした。そんなこと分かっています。そうじゃなくて、「でも、悪い人間が多いからなんとかしなきゃ」という話ですよね。なお、この人は僕の幼い姪を知能障害呼ばわりしてきたので、縁を切りました。(言うまでもありませんが知能障害自体が悪いのではなく、それを差別的な文脈で使うことに腹を立てたということです)
僕がミニシアターで受けた労働搾取について、話を聞いたうえで「そんなこと言われても、僕は(加害者の名前)を好きです」と言い放った学生もいました。この人は学生による映画メディアにも参加していたのですが、いったい映画について何を語るつもりだったのでしょうか。
つまり、誰かが「あの小説家は酷い人だ」と言えば、「小説をバカにするな」と言いたがる人は出てきます。「映画界の労働環境を整えなければ」と主張すれば、「すべての現場が酷いわけじゃない」と言いたがる人も出てきます。
自分が「被害に遭わずに済んだ、あるいは遭っても我慢できた」側の人間であることに自覚もなく、告発者に敵意をむきだしにする人は確実にいます。この人たちは基本的に加害者側(強者)に自己投影しているので、告発者を「業界の悪イメージを拡散させている邪魔者」程度に思っているのです。

Q5.加害者を批判するのは正義中毒なのか?

A.そもそも「正義中毒」という言葉を疑ってほしい。

「正義に酔って、加害者を批判するのはいけない」という考え方があります。それを言うなら、「あなたも自分の正義のもとに、被害を透明化しようとしてないか」って感じです。「正義中毒」なんて言葉、なんにでもあてはまるんですよ。こういう実体のない言葉で安全圏から、声を上がることに牽制する姿勢は卑怯でしかないですね。

Q6.有名人を攻撃すると、干されるのか?

A.干されることはある。

お偉いさんを批判しづらいのは事実です。「誰かを怒らせたから仕事をもらえない」って言うよりも、「面倒くさい奴認定」を受けるので、声がかかりにくくなるという感じですね。それを分かっていて身近な人間を批判できない人たちが政権や国家や歴史について何を言っていても、パフォーマンスにしか聞こえないですよね。常識的に考えれば、「友人や同僚に何も言えない人が、大きな存在には盾突いている」なんて、5ちゃんねらーと変わりはないですし。
映画界でもフェミニストを公言している人が、普通にハラッサーと仲良くしていてびっくりしたことがあります。被害者に寄り添っているつもりの人間でも、友人や先輩には甘くなってしまう。会ったこともない被害者よりも、飲み仲間に思い入れを抱いてしまう。
でも、そんな奴らと仲間になりたいですか?って気持ちだから、僕は全然、映画人の悪口を言いますし、もう業界で仕事をもらおうという意識もなくなりました。ここまで絶望しないと自由に発言できない、忖度だらけの世界がクリエイティブや教育機関です。願わくば、業界内の自浄作用が整って、「ダメなものはダメ」の価値観がしっかり浸透してほしいですね。

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