ミステリー映画において最大のギャグとなるもの―『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』

ミステリーとは様式美の世界である。つまり、真剣に細部を捉え始めるといくらでも矛盾点が生じるということだ。考えてもみてほしい。エラリー・クイーンやエルキュール・ポワロといった名探偵たちは、どうしてあんなにも多くの殺人事件に遭遇し続けるのか?そして、難解なトリックを思いつく頭脳があるはずの犯人が、なぜ毎回決定的証拠を現場に残してくれるのか。ミステリーとは、犯人と探偵を主役とした舞台劇に似ている。誰もがお約束の中で自らの役割を演じ切り、最終的には「解決」というハッピーエンドを迎える。この構図が守られる限り、ミステリーに本当の意味での「どんでん返し」などありえない。どんでん返しが行われるという点において、それは定型の域を出ない創作術だからだ。

『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』(2019)もまた、定型に満ち溢れたミステリー映画である。いや、ここには定型しかないといってもいい。老いた人気ミステリー作家が自宅の書斎で死亡しているところを発見される。状況から見て自殺としか思えないが、彼には死ぬ動機がない。逆に、彼の親族一同はそろって殺人の動機を抱えていることが分かってくる。何者かに雇われた名探偵のブラン(ダニエル・クレイグ)は、故人の看護師だったマルタ(アナ・デ・アルマス)を助手に従え、事件の真相を探り始めるのだった。

絵に描いたような豪邸と装飾品。そして、性格の歪んだ親族たち。ミステリーに必要な舞台も役者も抜かりなく用意されている。ただ、本作はそこから過剰なまでにミステリーの作為性をアピールしてくる。親族たちは取り調べ中、見事なまでに犯行の夜を思い出してみせるのだ。1分と違わず、誰が何をしたかの時刻まで覚えている。そして、ブランはあっという間に全員の抱えていたトラブルを見抜いていく。「きっと金銭面で個人ともめていたはず」「おそらく浮気をしていたのではないか」彼の推理ならぬ「予言」は、次々と当たる。故人の親族たちは一人残らず金の亡者か、人種差別主義者だ。南米からの移民であるマルタの前でも、隠すことなく差別意識を露わにする。ただ、こうした設定もむしろ、図式的な対立構造を強調するものでしかない。

極めつけは、マルタの特異体質である。彼女は嘘がつけない。性格が清らかというわけではなく、本当につけないのだ。どれほど些細な嘘でも、口にすると胃の中のものを吐いてしまうのである。嘘つきだらけの登場人物中、彼女の証言と記憶だけは信用できる。ブランにとっても、観客にとっても。

ここまで書けば分かるだろう。仰々しい世界観と陳腐な人間関係に彩られた『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』は、ミステリーの構造そのものを逆手に取ったブラックコメディである。犯罪捜査においては目立った能力のないマルタが、「嘘をつけない」という一点で重要な役割を与えられる物語。それは逆説的に、ミステリーのほとんどは嘘によって成り立っていることを示唆する。登場人物が観客につく嘘のことではない。物語の創作者が観客につく嘘のことだ。

『ユージュアル・サスペクツ』(1995)でも『ゆれる』(2006)でも『インセプション』(2010)でもいい。意外性のあるストーリーを売りにした映画の大半はどこかアンフェアな印象を観客に与えはしないだろうか。なぜなら、これらの映画は後出しジャンケンのような法則で無理やり「どんでん返し」を行っているからだ。物語の途中まで「犯人はAである」という前提で進行しておく。それから、「やはりBだった」という新しい情報を提示し、真相を語っていく。別にそんな映画がダメなのではない。問題は、「犯人はA」バージョンの物語が展開されているときの視点人物が存在しないことだ。そこで映し出されていた映像は一体何だったのだろう?犯人の妄想、もしくは作り手の仕掛けた罠ということになる。それが許されるのであれば、「どんでん返し」など永遠に繰り返せるだろう。

『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』はマルタという特異なキャラクターを生み出したことによって少なくとも、得体のしれないイメージ映像で真相をうやむやにされるような作劇は行われていない。そのかわり、マルタが真実だと信じて話している言葉が、実際にありえた内容かまでは分からない。ここまできて、ようやくミステリーの公正さは保たれる。オーバーアクトで「名探偵」「間抜けな刑事」「強欲な容疑者たち」を演じる俳優たちの存在感が際立っていくのである。そう、ミステリーの世界では正直さこそがギャグになる。それだけ、このジャンルは嘘にまみれてきたのだから。安易に「どんでん返し」という娯楽を提供したい、作り手たちの怠慢によって。

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