命は懸けても死を賭すことはできない戦い―劇場版『SHIROBAKO』

なぜ日本のアニメーションの多くはつまらないのか?いや、こう書き換えてもいい。なぜ日本映画の大半はつまらないのだろう?一応、大量生産の弊害である、という意見が答えとして広まってはいる。1作品ごとにかけられる時間と労力と予算が少なくなってしまうため、低品質の作品が増えてしまうのだと。確かに、それもあるだろう。だが、大量生産が罪だというのなら、どうして日本映画は、はるかに商業映画が活発に作られている、アメリカやインドや香港に面白さで負けているのか?

それは、日本のアニメや映画が疲弊しているからである。当然だ。これらのジャンルにおけるメジャー作品を見れば、驚くほど少数のメインスタッフが現場を掛け持ちしていることに気づくだろう。声優にいたっては、同時期に放送されている作品で主演が被っているような現象も珍しくない。主要のスタッフやキャストが限られているのだから、当然、アイデアはあっという間に枯渇する。作品ごとの差別化も難しくなる。結局、お決まりのパターンでお茶を濁す、陳腐な作劇が蔓延してしまう。

ところが、監督に水島努、シリーズ構成に横手美智子という、超多忙な2人を抜擢したにもかかわらず、全24話が傑作だった奇跡的なテレビアニメがある。P.A.WORKS制作の『SHIROBAKO』だ。2014年から放送された本作が、ほとんどの深夜アニメに漂っていた疲弊感を微塵も感じさせなかったのは、作り手が自分たちの物語として制作していたことに尽きるだろう。アニメ制作にまつわる人間関係、悩み、成長と停滞、利権争い―。その全てがフィクション的な誇張を交えつつも、「アニメの仕事を止められなくなる魔力」を実証していた。

中堅プロダクションを舞台に、アニメ制作そのものを描いた本作は、紛れもなく作り手たちの投影だった。事実、水島はキャラクターの1人について「彼はかつての自分」と説明もしている。水島といえば、破天荒なギャグやアクションの人であり、人気原作を丁寧に映像化していく職人の顔も持つ。その彼が、自分自身をキャラクターに重ねながらアニメを制作していたというだけでも、『SHIROBAKO』はかなり異質な作品だったのだ。

テレビ版『SHIROBAKO』には二度の大きな山がある。ひとつは制作スケジュールとの戦い、もう一つは原作者とのストーリーをめぐる戦いだ。そして、両者ともスタッフの熱意と技術によってクリアされ、物語は大団円を迎える。ただ、劇場版『SHIROBAKO』(2020)にはより大きな敵が立ちふさがる。つまり、日本の映像業界にはびこる絶対悪、「疲弊感」だ。テレビ版最終回から4年後、主人公、宮森あおいの所属している武蔵野アニメーションは存亡の危機を迎えていた。とある企画の頓挫により、会社は大打撃を受けてメインスタッフが大量に流出してしまったのだ。いまや、よそのスタジオが避けたがるダメ企画を下請けして食いつなぐ毎日である。宮森たちは一発逆転を賭け、他のプロダクションから押しつけられた劇場オリジナル作品の制作を開始するのだった。

落ちぶれた武蔵野アニメーションには、誇りも活気もない。下請けとはいえ、制作したアニメの反響にすら興味を持てない状態である。最初から、それが駄作だと分かっているからだ。いうまでもなく、この「誰もが駄作だと感じながら金のために関わっている」感じこそ、日本の映像業界における最大の病理に他ならない。劇場作品制作にあたり、メーカー側の担当者は宮森に飲みの席で愚痴る。「結局、敗戦処理なのよ!」と。彼女の不満は武蔵野アニメーションのみならず、ほとんど全ての映像関係者の思いを代弁している。クリエイターや制作たちは、商業ベースで心から「この作品に関われてよかった」と感じられるような体験を、現役中に何度味わうことができるのだろうか。

そう、劇場版『SHIROBAKO』の戦いにおける過酷さは、テレビ版の比ではない。誰が何のために立ち上げたかも分からない企画。すでにコンセプトすら崩壊しているプロジェクトで、帳尻合わせはいつも現場が強いられる。99%、敗北が決定している戦場だろうと、スタッフは投げ出すことができない。テレビ版では天下分け目のミーティングに出席するまでの道中で、マカロニ・ウェスタンのパロディがなされていた。劇場版では、同様の場面で仁侠映画のパロディが行われている。いずれも、死を覚悟した主人公たちが、それでもプライドを守るために死地へと赴く物語が定番である。

それらのプログラム・ピクチャーであれば、悪の親玉さえ倒せばすべてが解決するだろう。後は、主人公のガンマンやヤクザは、生き延びようが野垂れ死のうがどうでもいいことだ。しかし、現実はそうもいかない。命は懸けても死を賭すことはできないのが、社会人の戦いなのだ。どれほど華々しく散ろうが、それでプロジェクトが失敗するなら意味はない。テレビと劇場版の『SHIROBAKO』は逃げも透かしもなく、「地道な仕事の連続が世界を変える」可能性を、とてもささやかに教えてくれる。それは、現在の日本の映像業界が忘れてしまった信念だ。

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