榊英雄氏の報道で思い出した俳優ワークショップの問題点~パワーバランスの偏りについて~

まず、榊英雄氏による性暴力の被害者のみなさんに心からお見舞い申し上げます。私に何を言われても仕方がないと思いますが、どのようなときも寄り添い、支援していく所存です。

さて、映画監督で俳優の榊英雄氏が告発された。

まあ、石川優実さんのブログを読んだ時点で誰のことかはバレバレだったので近く動きがあるだろうとは思っていた。

これから榊氏の過去について、さらなる事実が掘り起こされるかもしれない。また、他にも立場を利用してのさばっている映画人はたくさんいるわけで、そういう連中もどんどん告発されてほしい。

ただ、今回自分が考えたいのは「俳優ワークショップ」という場所についてだ。

文春オンラインによる榊氏の告発では、彼が講師を務めた俳優ワークショップ受講生への性被害が報道されていた。

自分も2012年から2014年まで、京都で俳優ワークショップ運営に携わっていた。(団体は調べればわかります。僕はもう口にもしたくないです)そこで榊氏のような行為に及んだ講師は1人もいなかったと断言できる。

ただ、俳優ワークショップ自体の危うさは感じたし、その思いは今もなお強くなっている。日本に乱立している俳優ワークショップの何が問題なのか、それを述べていきたい。

いるだけでパワーバランスが偏ってしまう空間

そもそもワークショップとは本来、「体験型講座」を意味する。参加者たちが意見交換し、交流し、ひとつの目標を達成する。それがワークショップだ。たとえば、僕が敬愛する映画作家、ジョン・カサヴェテスはニューヨークの舞台俳優たちと即興劇中心のワークショップを行っていた。そこで生まれたアイデアは、彼の映画に生かされた。これは正しいワークショップの形だろう。

そして、日本でも俳優ワークショップはあちこちで行われている。濱口竜介氏、橋口亮輔氏、大根仁氏などは自身が講師を務めたワークショップから、受講生を中心にして映画制作もした。いずれもそれなりに評価されたように思う。

しかし、彼らのワークショップはどちらかというと、「スクール」に近い。なぜなら、その空間において、彼らがいるだけでパワーバランスの偏りが生じているからである。

濱口竜介氏の『ハッピーアワー』や『親密さ』などの映画を見れば、彼がワークショップで何をやってきたのかが大体わかる。今話題の『ドライブ・マイ・カー』でも片鱗はうかがえるだろう。ちょっとスピリチュアルで抽象的。一見、答えがない行為を延々と続けているようにも見える。

問題なのは、「答えがない」という点で「答えがある」ことなのだ。そして、それは濱口氏の思想である。濱口氏のワークショップは、彼の哲学、価値観、創作理論をベースに作られている。そこでは濱口氏の発言力がかなり強まるし、受講生の理解も盲目的になる。

濱口氏がワークショップ内で何をし、どのように振舞ってきたかは詳しく知らない。興味もない。ここで言いたいのは、ああいう空間では、講師や主宰には信仰のような視線が注がれるということだ。「修了制作への出演」という餌が参加者の前にぶら下がっていたなら、特に。

僕が俳優ワークショップで見てきたこと

前述の監督たちはワークショップ映画でそれなりの評価を得た。そのことで、なんとなく映画ファンや映画メディアも「ワークショップは面白い」「映画の可能性だ」みたいに思っていないだろうか。でも、現実はそんなに甘くない。濱口竜介になりたくてなれなかったワークショップ講師なんて腐るほどいるし、最初からなるつもりもなく、金のために仕事をこなしている連中もいる。

知ってほしいのは、そんな俳優ワークショップの大半は、「別にスキルアップにもならない」ということである。

僕が運営にいたころの話をしよう。ある有名監督のワークショップが終わった後、参加者たちと課題の話になった。参加者は、某日本映画の脚本を各々の解釈で演じてもらった。活発な意見交換が行われた。僕は、ああいう時間こそワークショップの醍醐味であるべきだと思う。ところが、ある俳優はやや不機嫌そうにしていた。そして、こう言ったのだ。

「でも、〇〇監督(講師)がいいといったものを目指す場所だったんだから、〇〇監督のいってたことが正解だったんじゃないですか」

その俳優はワークショップ内で比較的、高い評価を受けていた。しかし、その人の演技は、自分が言いやすいように台詞を改変し、好きな解釈で披露するものだった。もちろん、実際の現場でそんな演技が通用するはずもない。ただ、その人の中では「監督に褒められたのだからそれでいい」という理解だけが残った。

別の監督が講師に来たとき。ワークショップの最後にこう言い残して帰った。「まあ、こんなことしている暇があったらいい映画をたくさん見た方が俳優の勉強になりますけどね」

その監督はワークショップの間、ずっと参加者に「カメラに表情が見えやすい角度」や「編集がしやすい間の取り方」を教えていた。全員とは言わないが、映画監督が現場で考えているのはそういうことである。しかし、それだは俳優側に達成感がない。そこで、講師たちは「感情を込める」とか「登場人物になりきる」とか分かりやすい目標を設定する。

監督が特に気にしてもこなかった演技論が、いつの間にかできあがる。それを俳優は、疑いもせず受け入れていく。やがて、人間関係のパワーバランスが崩れる。

ワークショップと基礎訓練を混同するべきではない

本来的に、俳優ワークショップとは演技の基礎を教えるべき場所ではない。発声とか動きとか、感情を込めるとか。そんなこと、とっくに身についている俳優たちが集う場であるべきだ。そのうえで方法論を試し、意見交換し、創作のアイデアを生み出す。それがワークショップの正しい形である。

それなのに、俳優ワークショップとは名ばかりの基礎訓練場があちこちにあるのは、それだけ俳優たちが自分磨きの場に飢えているからだ。彼ら、彼女らの飢餓感につけこむ大人たちが非常に多い。そして、俳優たちの向上心は逆手に取られ、榊氏のような人間の被害者となる。

最後に、僕の意見を書いておく。どうするべきか。俳優たちに何をおすすめするか。一応有料にしときますけど、まあ、興味があればtwitterとかで絡んでくれたらリプライしますよ。@ZukazukaSyuichi

ここから先は

334字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?