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外ノ浦検潮場跡(旧陸地測量部 )忘備録



験潮場(けんちょうじょう)とは

潮位を測る場所である。建物の中に、海面の昇降を連続的に記録する験潮儀等を格納している。
設置機関により呼称・名称が以下のように異なっている。

※参謀本部陸地測量部(明治24年)より験潮場を設置し、本格的に観測を開始したとの事なので以後「験潮場」と記載(呼ぶ)ことにします。

陸地測量部(りくちそくりょうぶ)とは

陸地測量部(りくちそくりょうぶ)は、日本陸軍参謀本部外局で国内外の地理地形などの測量・管理等にあたった、現在の国土地理院の前身の一つである国家機関(Wikipediaより)
詳しくは、以下よりご確認下さい。
陸地測量部 - Wikipedia

■検潮場跡(建屋)2023.7月の様子

潮場跡ということもあってかなり海との距離が近い(当たり前ですが)
あたりは釣り人が数名居る程度でのどかな印象です。

建屋としては明治24年以降に建てられたものとなります。
浅はかな記録写真となりましたが、全体がコンクリート製ではなく“石”?で作られてるヶ所も見受けられます。
そして数年訪れたかった此方の建屋が案外小規模(人が2名程入れるであろう規模)で驚きました。戦前の建物ていつも同じ感想になりがち笑

■外ノ浦検潮場の簡易な履歴


検潮所履歴(私的かなり大雑把に抜粋)

1891陸軍陸地測量部により検潮所開設
1894観測開始1924.12.15海洋気象台へ国営移管
1984.04.01浜田検潮所へ移転、廃止
(国土交通省 気象庁HPより)

※詳しくはhttps://www.bing.com/search?pglt=41&q=検潮所履歴+外ノ浦検&cvid=62984a7c128f44d4907ff5ad44e63e29&aqs=edge..69i57.2723j0j1&FORM=ANNTA1&PC=HCTS


周囲(地理)の歴史

江戸時代は山間部の一部を津和野藩が、他地域を浜田藩が統治していた。浜田藩の城下町が現在の浜田市街となっている。

1866年(慶応2年)の第二次長州征討浜田城が焼失し長州藩の支配下に入り、1869年(明治2年)の版籍奉還により一旦大森県に編入された後、翌1870年(明治3年)に県庁が浅井村(現在の浜田市浅井町)へ移転され、県名も浜田県と改称。翌1871年(明治4年)に旧津和野藩領を編入して名実共に石見地方一帯を治める中心地となった。

1876年(明治9年)の第二次府県統合により島根県に編入され、浜田県は廃止。1879年(明治12年)の郡区町村編制法施行により、現浜田市域の大部分は新たに発足した那賀郡の郡域に入った。郡役所は浅井村に置かれた。その後1889年(明治22年)4月1日、町村制施行により浜田新町・浜田紺屋町・浜田片庭町・浜田蛭子町・浜田辻町・浜田門ヶ辻町・浜田檜物屋町・浜田原町・浜田浦・松原浦および原井村・浅井村・黒川村の各一部の区域から那賀郡浜田町が発足した。(Wikipediaより)


空中写真を眺めてみる

1976年8月29日の写真が一番見やすいと感じたのでピックアップします。


恐らくはマーキング(黄色〇)箇所に位置するかと..…

因みにそれ以前の空中写真だと、、、(以下、1972年5月24日撮影)判別さえ不可能


もう、お遊び状態ですね。なにせ明治時代の建物ですから空中を舞う写真などありませんので・・・。

験潮の概要(国土交通省 国土地理院より抜粋)


気になった方はこの先もどうぞ

験潮場の構造
国土地理院が設置している験潮場の基本構造は、井戸および導水管、観測室(験潮儀室)、コンピュータ室で構成されています。
験潮は、導水管を通って井戸に出入りする海水の昇降を、験潮儀から井戸の中に吊した浮標の上下動でとらえて記録します。
また、この他にも海中に沈めたセンサーの水圧変化で潮位をとらえる験潮儀があります。
国土地理院の験潮場では、全ての施設の観測装置がデジタル方式で潮位を記録するようになっています。


験潮の概要 | 国土地理院 (gsi.go.jp)

今回はこの辺りで、自分用のメモみたいなものですが読んでくれてありがたうございました。


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