料理できないことが可愛いと思ってたの、今考えると痛すぎて無理なの
今でこそ料理は大好きだけど、昔は全然できなかった。インスタントラーメンと目玉焼きが精一杯。正直、それが「料理」と言えるかどうかも怪しい。
ところが、20代前半の自分は「料理できない自分って、なんか可愛いよね」なんて大勘違いしていた。まさに痛すぎる過去の自分に、今なら一言「おいおい、目を覚ませ」と言いたい。
その頃、友達とコテージに泊まりに行ったときの話だ。昼からBBQをして、地元のスーパーで買った肉や燻製を楽しんでいた。コテージには炊飯器があったので、皆で「肉食べたら、やっぱり米が欲しくなるよね!」というノリでお米を買った。数キロも。
「お米炊いて〜」と頼まれた自分は、実は一度もお米を炊いたことがなかったけど、「まあ、なんとかなるっしょ」と軽い気持ちで引き受けた。
4人いるし、たくさん食べるだろうと思って10合釜いっぱいにお米を投入。そこに水を入れて混ぜていたら、友人が「おいおいおい」と、やけに滑らかな「おい」の連発で駆け寄ってきた。自分は「え?」という顔で彼を見つめると、半笑いの顔で「どんだけ米食うつもり?」と。さらに、「米って炊くと膨らむんだよ」と教えてくれた。
その瞬間、自分は炊飯というものをまったく理解していなかったことに気づいた。なんと、このとき初めて、お米が膨らむという事実を知ったのだ。大人にもなって、自分は「合」という概念すら知らず、お米はそのままの量で炊けるものだと思い込んでいた。今考えれば笑っちゃう話だけど、当時は「こんな失敗しちゃう自分、可愛くない?」なんて本気で思っていた。過去の自分を殴り飛ばしたい。
その後、友人たちは笑いながら10合釜に溢れるほど詰め込んでしまったお米をどうにか処理してくれて、炊き上がったお米を皆で必死に食べた。それでも、成人4人で1泊2日で食べ切れる量じゃなかった。
翌朝、おにぎりを大量に作って牧場に持っていこうとしたが、そのおにぎりを食べた記憶が全くない。もしかして、あまりにもお米に飽きてしまって結局食べなかったのかもしれない。
母方の親戚は、山形で「はえぬき」というブランド米を作っている。幼い頃から「お米には神様が宿っているから、一粒残らず綺麗に食べなさい」と厳しく躾けられてきた。そんな自分が、成人にもなって大量のお米を無駄にしてしまったことが恥ずかしい。毎年、丹精込めて美味しい「はえぬき」を送ってくれる山形のおじさんには、絶対にこの話はできない。
その後、飲食店で働くようになり、今では料理が好きになって、人並みにこなせるようになった。だからこそ、あのときの失敗がどれほど大きかったかを、今になって痛感している。無知って、決して可愛いなんてものじゃない。
三十路の夏、無知の恐ろしさを改めて思い知る。