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ドレス・コードは私たちをどう縛り付けどう解放するのか?

京都国立近代美術館で、2019年8月9日から開催している展覧会をご存知でしょうか。
その名を「ドレス・コード? ―着る人たちのゲーム」という、京都服飾文化研究財団が主催の企画展です。

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“僕らが纏うモノ”に興味を持って、このnoteを読んでくれているみなさんなら、ハッとするタイトルのはず。会場には300を超える展示品と、着る人たちのゲームのプレーヤー(つまり私たち来場者)を惑わす13のコードが用意されています。
ドレス・コードは、過去から現在にかけてどのように変化していったのか。
改めてドレス・コードについて見つめ直すきっかけが、この「ドレス・コード? ―着る人たちのゲーム」にはたくさん散りばめられていました。

あ、挨拶がすっかり遅れましたね…。

はじめまして。“僕らが纏うモノ”のオンラインコミュニティ、“僕らの屋根裏部屋”に参加している田中(@tanakou_inm)です。

今回は、僕が「ドレス・コード? ―着る人たちのゲーム」(以下ドレス・コード展)を見て感じたことをお伝えします。
かなりの長文ですが、最後までお付き合いください笑

ところで、あなたは今、何故その服を着ているのですか?
そんなことを考えながら、読んでもらえると嬉しいです。

プレーヤーを惑わす13のコード
さあまずは、着る人たちのゲームに用意された13個のコードを全てご紹介します。

0.裸で外を歩いてはいけない?
1.高貴なふるまいをしなければならない?
2.組織のルールを守らなければならない?
3.働かざる者、着るべからず?
4.生き残りをかけて闘わなければならない?
5.見極める眼を持たねばならない?
6.教養は身につけなければならない?
7.服は意志をもって選ばなければならない?
8.他人の目を気にしなければならない?
9.大人の言うことを聞いてはいけない?
10.誰もがファッショナブルである?
11.ファッションは終わりのないゲームである?
12.与えよ、さらば与えられん?

ドレス・コード展では、この13のコードを辿りながら、ドレス・コードとは一体なんなのかを見出していくことになります。

「服を着る」のはルールだ

ドレス・コード展の最初に待ち構えるのは、ミケランジェロ・ピストレットの《ぼろきれのビーナス》。

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(ミケランジェロ・ピストレットの《ぼろきれのビーナス》 - 「ドレス・コード? ー 着る人たちのゲーム」図録より)

そして、来場者に投げかけられる最初のコードです。

0.裸で外を歩いてはいけない?

「裸で外を歩いてはいけない?」と聞かれれば、誰もが「いけない」と返すでしょう。
それが社会のルール(=コード)だからです。

着る人たちのゲームは開始早々、私たちプレーヤーの心を、大きく揺らしにかかります。
「服を着る、それだけで私たちは、すでにルールに縛られているのだ」と。

宮廷社会の規範だったドレス・コード

2つ目のコードはドレス・コードの起源にまで遡ります。

1.高貴なふるまいをしなければならない?

日本女子大学家政学部准教授の内山里奈先生によると、ドレス・コードが登場したのは17世紀のフランス(だだし、ドレス・コードという言葉自体はフランスにはない)が最初ではないかと。
17世紀に執筆された『礼儀作法書』の中には、宮廷の慣習に従った衣服の身につけ方が書かれていたそうです。

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(1770年代後半のドレス - 「ドレス・コード? ー 着る人たちのゲーム」図録より)

その後、1789年から起きたフランス革命により、宮廷社会は完膚なきまでに否定されます。
もちろん、「宮廷社会の慣習に従った衣服の身につけ方=ドレス・コード」も否定されることになりました。
この当時のフランスのドレス・コードは、身分の上下を確認し、それを強固に誇示するためのものだったからです。

…歴史の話はこのくらいにして、現代に戻ります。
17世紀フランスの宮廷社会で誕生したドレス・コードが、人々の手によって否定され、消えていったこの一連の流れを、つい最近まで私たちは繰り返していた(いや、むしろ未だに繰り返している)気がします。

トップメゾンが年に2回発表するコレクション。
それらを身に纏うセレブリティたち。
そこで生まれる「セレブファッション」というドレス・コード。
それに憧れる一般市民たち。
逆に、それに抗う一般市民たち。

どうです?
17世紀〜18世紀のフランスで起きた、ドレス・コードの変遷と現代のドレス・コードの変遷はなんら変わりないんです。

破られたコードは新しいコードを作る

真昼のオフィス街、スーツにネクタイ、ビシッと決まった七三分けの男性を見かけたら、あなたは彼をどんな人だと思いますか?
夕暮れ時、紺のブレザーにチェック柄のスカート、茶色ののペニーローファーを履いた女性を見かけたら、彼女をどんな人だと思いますか?

前者はサラリーマン、後者は女子高生を思い浮かべた方が多いかと思います。

2.組織のルールを守らなければならない?

このように、ファッションは時に、人を「型」にはめ込むとができるのです。
そして、そこから逸脱することで、新たなドレス・コードが生まれることもあります。

19世紀、アメリカ西部開拓者の作業着だったデニムは、いまではファッションの王様と言って過言ではありません。

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(マリテ+フランソワ・ジルボー/マリテ・バシェレリー、フランソワ・ジルボージャケット - 「ドレス・コード? ー 着る人たちのゲーム」図録より)

3.働かざる者、着るべからず?

上下デニムウェアを身に纏った人を見ても、「あの人は炭鉱労働者だろう」なんて思わないですよね?

ミリタリーウェアも同様です。
20世紀前半に起きた悲惨な戦争の中で生まれた衣類を、私たちは戦地ではなく街で着用し、ファッションを楽しみます。

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(ジャン=ポール・ゴルチエ 浴衣、帯 - 「ドレス・コード? ー 着る人たちのゲーム」図録より)

4.生き残りをかけて闘わなければならない?

私自身、秋冬のコーディネートにBurberry'sのトレンチ・コートは欠かせません。
ただ、肩のエポレットを取り外し、少しでもミリタリーウェアの雰囲気を消そうとしています。
私もまた、はめ込まれた「型」を逸脱しようとしていたのです。

自己満足こそドレス・コード

「型」からの逸脱によってファッションを楽しむ人もいれば、自ら「型」にハマることでファッションを楽しむ人もいます。

5.見極める眼を持たねばならない?

例えば、赤いボックスに白抜きでロゴが入ったTシャツを着れば、誰でもストリートファッションを表現できます。
そこに書かれた文字がSupremeではなくてもです。

最近はアート作品をモチーフにしたアイテムもストリートで流行しましたね。

6.教養は身につけなければならない?

このきっかけもSupremeだったように思います。
エッシャーの作品は、瞬く間にシュルレアリスムのアートから、ストリートファッションのアイコンへとコードが書き換えられました。

7.服は意志を持って選ばなければならない?

ストリートの若者が、エッシャーの作品がプリントされたTシャツを着るのは、エッシャーの作品が好きだからというわけではないのでしょう。
そのアイテムを身につけることで、周りから一目置かられたいからです。

中でも、80年代〜90年代のANDAZIAボディのビンテージを着る人はタチが悪い。
巷で流行っているSupremeのものではなく、オリジナル、アーキタイプのアイテムを着ていることに、優越感を覚えるタイプです。
かくいう私も、その1人でした…。

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(私物のエッシャーTシャツ アメリカ製のANDAZIAボディ)

ただ、それが自分の意志で選んだものなら、それでいいのだと思います。
本当に、自分の意思が、あるのなら。

ドレス・コードは見る/見られる

「人を見た目で判断してはいけない」
この教えは、私たちが人を見た目で判断していることの裏付けでもあります。
むしろ私たちは、こんな風に思うことさえあります…。「私を見た目で判断して欲しい」と。

8.他人の目を気にしなければならない?

ファッションは双方向のコミュニケーションです。
他人からどう見られるかという意識が欠如したファッションはあり得ないと思います。
(冒頭の話に戻ってしまいますが、)他人からどう見られるかを意識しないのなら、裸でいいわけですから。

「こんな自分でいたい、こんな自分と思われたい」
今日あなたが着ている服には、そんな思いが隠れていませんか?

9.大人の言うことを聞いてはいけない?

例えばレザージャケット。
レザージャケットって、なんだかワルって感じがしますよね?

元々はバイカーのためのアイテムだったレザーのライダースジャケットは、映画乱暴者のマーロン・ブランドの影響で、反抗の象徴になりました。

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(ラングリッツ・レザーズ/ロス・ラングリッツ・モーターサイクリング・アンサンブル - 「ドレス・コード? ー 着る人たちのゲーム」図録より)

このラングリッツ・レザーズのセットアップを目の当たりにしたとき、バイカーより先に、髪を逆立てたパンクロッカーが頭をよぎったのは、私だけではないはず。
私たちは、レザーを纏うことで、一体何に反抗しようとしているのでしょうか。

ドレス・コードは不自由な自由だ

私がドレス・コード展に行ったときの服装はこんな感じでした。

ネイビーのBBキャップ
白のポケットTシャツ
フランス軍のカーゴパンツ
ニューバランスのスニーカー

この服装を、誰がファッショナブルだと言ってくれるのでしょう?
その価値観は誰が決めているのでしょう?

10.誰もがファッショナブルである?

「誰もがファッショナブルである?」というコードは、強烈なアイロニーを孕んでいます。
もし仮に、誰もがファッショナブルであるなら…、それはもう、全員平凡と同義ではないでしょうか。

ファッショナブルであることを、自分自身で決めることは出来ません。
何がファッショナブルなのを決めるためには、他人を見る、または他人から見られる必要があるからです。

11.ファッションは終わりのないゲームである?

SupremeのロゴがプリントされたTシャツを着た人をスケーターだと思うように、スタッズのついたライダースを着た人をパンクロッカーだと思うように、私たちは他人を見た目で判断し、他人から見た目で判断されます。

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(ヴェトモン 2017awのコレクションで「エモーショナル・ハードコア」とラベリングされたモデル - 「ドレス・コード? ー 着る人たちのゲーム」図録より)

デムナ・ヴァザリアがヴェトモン2017awのテーマに選んだのはステレオタイプ。
私たちが他人の服を見る時、無意識のうちに相手を分類していることを、シニカルに表現していました。

人を見た目で判断すること。これは、私たちが他人の前で服を着る限り、終わるとのないゲームなのかもしれません。

17世紀フランスの宮廷社会が、身分を誇示するために服を選んだ時となんら変わらない、なんて不自由なゲームなんでしょうか。

ただし、このnoteを読んでいる人は、こんな風に思っているはずです(思っていることを、心から願う)。

「不自由の中で自由を表現するのがファッションの楽しさなのだ」

ドレス・コードは私たちをどう縛り付けどう解放するのか

ドレス・コード展を訪れて、改めて感じたこと。
それは、現代においてドレス・コードとは、《私たちを解放させる暗号》だということです。

広辞苑をひくと、ドレス・コードとは「特定の場所や場面で身につけるべき服装の決まり」とあります。
たしかに、これまでのドレス・コードはその通りの意味でしかなかったと思います。

しかし現代は、SNSを通じて不特定多数の場所・場面すべて関係なく、あらゆる他人の目の前で、自分のファッション、つまりドレス・コードを発信できます。

そうすることで、私たちは自由に、自分のなりたい姿になることができるのです。

この時ドレス・コードは、こうでなければならないという《規範》ではなく、こうでありたい、こう見られたいという《暗号》に変わります。

ただし、暗号は相手が解読するスキルを持っていなければならないこともあるでしょう。

12.与えよ、さらば与えられん?

だから私は、ここに私がドレス・コード展で感じたことを記し、みなさんに届けようと思います。

このnoteを読み終えた後、みなさんが今日着ている服たちを選んだ理由を、もう一度考えてみてください。
そこには必ず、みなさんにしかないドレス・コードが隠されているはずです。

このドレス・コード展は、社会学的な見地からファッションを展示している展覧会のため、「ドレス・コード?」の答えは用意されていません。

なので、このnoteにも、答えなんてものはありません(ここまで読んでもらったのにスイマセン…)。

ぜひみなさんも、京都国際近代美術館で開催されている「ドレス・コード?ー着る人たちのゲーム」をご覧になってください。
普段必ず行なっている服を選ぶ行為に、どんなコード(暗号)が隠されているのか、改めて考えるいい機会になりますよ。

2019.09.16 田中 宏一郎

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