小村雪岱展を見て、1枚の絵の終わるところを考える

画像1 今週、1年ぶりに都内に出かけた。三越前のガラガラの地下通路を抜け、三井記念美術館の小村雪岱展へ。noteでも紹介が多く、小気味良い洒落た作品に人気が高いよう。
画像2 一番好きだった作品は、購入したポストカードの写真ですが、「雪の朝」。ほぼ半分がこんもりと積もった雪だ。
画像3 雪の縁取りの中に、大小異なる格子と濃い色の壁が交互に現れ、小さなリズムを感じる。格子戸の向こうにはたぶん綺麗好きな美しい人が住んでいる。朝餉の準備か、厚手の布団をまくって、ゆるゆると起きるところか。描けるのに描かない。省略した分だけ情緒がある。一時が万事、省略と繰返しの美だ。さらに色がまあ鮮やかで、美的センスの塊。
画像4 小村雪岱展を見て、上石神井まで足をのばし、木版画の材料を扱うウッドライクマツムラさんへ。版木を鞄いっぱい仕入れ、慌ててうちに帰る。自分の版木はどうだろう。描きすぎだろうか?そもそも描きたいものは何だった?
画像5 寺尾紗穂さんの「やくらい行き」を聞いてから、この宮城の民話の姉妹を描きたいと思ってきた。二人の姉妹は、この世が辛いからか、この世の全てを見ようと薬萊山(やくらい山)に向かう。けれど、道中姉は、転んでウドの棘で眼を怪我してしまい、山へ登ることは諦める。妹は後ろ髪をひかれながら、山へ登り、姉を思う。
画像6 それで、わたしは、亡くなった姉を通り抜けた息吹はきっと一陣の風となるし、遠くの妹へ届き、また流れていくだろう、というのが描きたいのだが、それが描けているだろうか。虚飾はないか。一番大事なひとすじのことが描けたら、そこで終わりだし、その一点は自分が決めるのだけれど、終着点って見えるだろうか。終着点周辺で迷い、半ば諦めて、次の作品に取り組むばかりではないか。。そういえば、小村雪岱展には彼が描いた模写もあって、他に比べ控えめな線だった。彼のような完璧な人も先人の線に行き先を探したこともあったのだろうか。