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パチンコ冷風サブリミナル銀杏

久しぶりに天神(福岡県では都会)に友だちと遊びに行ったら、パチンコ店のドアが開くとめっちゃ涼しい、をめっちゃ体験した。

ただ、連日の猛暑で高気温・高湿度を常時モードにして歩いているから、突然の爆冷風に、涼を感じるよりも死を感じた。

何が起きた!?温度がなくなった!!エネルギーを吸収されてる!!!
まさに目の前には、暑そうに歩いている人と相当な熱を持っているコンクリートの建造物があるのに、自分はすごく冷たい。視界は暑いのに体感は寒いから、外と内のギャップで一瞬、頭がおかしくなったような。

世界から隔離された気分というか。自分だけが宙に浮いた瞬間というか。世界が映像だとしたら、一人だけレイヤーが違う!?って感じ。

世界は空間の連続だし、人間はそれぞれの自己の連続だと思うけれど、それらの連続の中に、ふいに飛んできた知らない断片が一瞬入り込んできた感がある。サブリミナル効果のような。



それと、パチンコ店に入ろうとする人間を未だ見たことがないかも。こう、意志を持って足を踏み入れようとしていない。なんらかの独立した磁場の影響で、パチンコ店に入らされているんだろうなって感じ。

入店(意識)、入店(無意識)、退店(喜び)、退店(悲しみ)

粗品のYouTubeでもなんか言ってたかも、””パ地動説””みたいな。
パチンコ台を中心に世界が廻ってるから、その物理法則によって人間はパチンコ台の椅子に座って、手の位置に固定ハンドルが来る。絶対そう。

それに、なんかパチンコ店に入ろうとする人間って、さも当たり前のように、どこか済ました顔で入店するという偏見を持ってる。

加えて、あんな外に冷風が溢れ出るパチンコ店の中は、絶えず冷風が吹き付ける極寒の地だと思うから、よく夏の街で見かける、こんな暑いのになんで長袖を着てるんだ、って人はパチンコ店に行くため防寒していると、偏見していたけど確証を得てしまった気分。



そういえば、心理学とか社会学の〇〇効果を知って「へえ~」ってリアクションするけど、すぐに忘れてしまう。

これを何度も何度も繰り返していくんですよね。くだらない人生が過ぎていくのを、ほげ~と眺めることしかできない。YouTubeの雑学系のショート動画で、サブリミナル的に要らない雑学が流れてくるけど記憶に残ってること一度もない。

興味こそ持って観るけど、教えてもらった途端にゴミになるというか。この小さい知的欲求って、「知りたい!」って欲求なだけで「覚えたい!」って欲求ではないから、もう用済みだから、って感じで意味がなくなる。



これって銀杏の入っている茶碗蒸しと同じで、銀杏を食してしまった茶碗蒸しって途端に残り物と化す。美味しいんだけど銀杏の不在で、どこかぽっかり穴が空いた気持ちになる。残りは消化試合の様。

テーブルに届いたキラッキラに輝いてる、ほわほわの茶碗蒸しを、この中にあるであろう銀杏に向かって堀り続けていくから、銀杏を口にした途端にピークを迎えて、茶碗蒸しは輝きを失って、ふつうの茶碗蒸しになる。美味しいんだけど、もう変わってしまったものだから。

茶碗蒸しの内側にしか意識が行っていなかったから、外側を見たときの空虚感と言うか没頭が解除される感じは、もはや風情。花火の儚さと一緒。「永遠だったらいいのに」と思うところまで一緒。かといって後で思い出そうとしても、あまり鮮明に思い出せないのも一緒。

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