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栗屋敷のユリ【第42章】トゥナイト

バーンスタイン:「ウエスト・サイド物語」より「トゥナイト」
 パパとママは引越しの準備で夜遅くまで話し合っていた。私はいつまでも眠れずにいて、気がつくともう夜が明けていた。家をそっと抜け出して、栗林のほうに行ってみる。ラブストーリならここでヒロシくんが現れるところだ。

 母に聞きました。日本に残ろうとしたのは、ユリさん、あなたのためです。

 とかなんとか。朝日の差し込む庭で熱いキスとなるところ。
 現実は、ただ凍えそうになり一人さみしく家に戻るだけ。栗屋敷のヒロシくんの部屋の辺りを見上げる。

 おお、ヒロシ。あなたは何故ヒロシなの。

 バルコニーにいるのはジュリエットのほうだったっけ。それにこんな早朝ではなかったはず。梅の花の香りが漂ってきて、私は深呼吸してから歩き出した。
 その日、私が学校に行っている間に、ヒロシくんはミドリさんとドイツに帰ってしまった。結局、会うこともなかったから、どんな風に私の話が伝わったのかわからない。アカネさんはやっぱりちょっとさみしそうだった。
「私が甘やかすからだって、すごく怒られちゃって。ミドリは本当に言いかたがきついから。まあ、そうでもないと外国で暮らしていけないのかしらね」
 それでも、いつもの早口で元気に話し続ける。
「私にもいい歳なんだから、ここを売り払って老人ホームに行ったらどうかって言うのよ。私は絶対にここから出ないって言ってやったわ。私が死んだら好きなようにすればいいって」
 こうなってしまうと、意外に気持ちはスッキリとしていた。はじめからヒロシくんは遠くにいた。近くに住んでいても遠い存在だったのだ。
 私はヒロシくんのことを考えないように、すぐに行動をおこした。マリアちゃんに声をかけ、うちでバレンタインのチョコ作りをすることにした。高田さんたちも誘うことにした。そのうちにやることがどんどん増えてしまい人数も多くなり、大掛かりなパーティーのようになってしまった。受験も終わったし、バスケチームも引退試合が終わって、みんな暇だったらしい。アカネさんに栗屋敷の納屋を借りることになった。
「ユリちゃん、このカップはここでいい?」
「マリアちゃんのところがいいかな」
 紙コップと紙皿でいいと言ったのだけれど、アカネさんはあるものは使えばいいと言って食器も貸してくれた。アカネさんは手作りチョコ教室の先生もやってくれる。
「そろそろ時間だから、門のところまでいかなくちゃ」
 私とマリアちゃんが納屋を出ると、もう女子たちの騒がしい声が聞こえる。ちょうど土門さんを送って来たマイクロバスが止まって、土門さんとベルが降りてきた。
「どうしよう。門のところで集合にしちゃったから」
「大丈夫だよ。去年、学校に盲導犬が来ていろいろ教わったからさ」
 私が慌てて門のところに走って行こうとすると、マリアちゃんがとめた。実際に集まっていた女子たちは騒ぐのをやめて、土門さんに挨拶すると道を開けた。ベルに話しかけたりさわったりする子もいなかった。
 納屋の一角はテツコさんの占いコーナー、ママがポットでサービスする紅茶とお菓子コーナー、アカネさんの手作りチョコ教室があり、土門さんの庭の彫刻鑑賞、うちの前ではパパと私の作品展示をやった。
 約束はしてなかったのだけれど、土門さんは庭に出てきて、美術館で見たギャラリートークのように話をしてくれた。私とマリアちゃんが司会で土門さんがゲスト。
 今日は風もなくて春みたいに暖かい。もし蜂谷さんがいたら野外ライブもやっていたかもしれない。
「青江さん、また引越しするんだってね」
「青江さん、やっぱり木村とつきあっているの?」
「お母さんきれいだね」
 いろいろなことを聞かれる。今の人、誰だっけ? と思いながらも、一応にっこり笑って答える。学年の女子がほとんど来ているみたいだ。私はクラスの中で浮いていると思っていたけれど、周りの人のことを知ろうともせず、仲よくしようともしなかったのは私の方だった。いまだに同じクラスの女子でも、苗字しか覚えていない子もいる。
 パパは最初、家の前のテントの下にいて、作品のことを説明したりしていた。そのうちに何故か似顔絵コーナーになっていて、絵を描いてプレゼントしている。
 栗屋敷に住んでいることを隠そうとしていたのに、今こうしてみんなを招待し、みんなと話していることが不思議だ。新しい学校で友だちがたくさんできたらいいなと思っていたことが実現している。まあ、途中でいろいろあったけれど。今日は木村ファンA~Dも来ていた。
 今晩、マリアちゃんはうちに泊まっていく。ママと私とマリアちゃんが奥の和室で寝て、パパは一人で寝ることにした。
「なんか静かすぎて逆に落ち着かない」
 そう言って、マリアちゃんはうちのママの手伝いをやっている。弟たちにも電話をして、いろいろ言いつけている。電話を切るとちょっと寂しそうにつぶやいた。
「私がいなくても意外と大丈夫みたい」
「そうなのよ。これからは自分の時間も大事にね」
 ママが先輩らしくアドバイスを言っているのがおかしかった。

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