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栗屋敷のユリ【第41章】断頭台への行進

ベルリオーズ:幻想交響曲 第四楽章「断頭台への行進」
  「テツコさんいますか?」
「ユリちゃん、待っていたよ」
 テツコさんは私をさっと招き入れた。
「仕事中じゃなかった?」
 テーブルの上には本やノートが積まれている。
「そこに座って。大丈夫? 顔色がよくないけど」
「いろんなことが動き出して、目が回っているだけ」
 暖かいハーブティーをもらって一息つく。テツコさんは何も聞かず、私が話し出すのを待っている。
「黙って逃げ出すわけじゃない」
 テツコさんは静かにうなずく。
「伝えたいことはあるけれど…」
 あとが続かなくて考えていると、テツコさんが引き継ぐように話し出した。
「言葉にしたら壊れてしまいそうな、揺らいでいる気持ち」
 その通り。私はテツコさんを見つめた。
「ユリちゃん、その気持ちが壊れてしまっても何かは残るのよ」
 テツコさんは私の肩に手を置いた。
 やっぱり自分で直接話そう。今までの気持ちも全て話そう。
 私はテツコさんにお礼を言うと栗屋敷に向かった。
 もう辺りは暗くなり始めている。ピアノの部屋の灯りはついていない。どうしよう。台所のドアから声をかけようか。
 その時、正面の玄関が開いてミドリさんが現れた。コートを肩に羽織って、手には煙草とライターを持っていた。
「ちょうど良かったわ。ちょっとそこまでいいかしら」
 そう言って、栗林のほうに歩いて行く。私はミドリさんの後に続いた。
「ヒロシは私と話そうとしないの。あなたからもドイツに戻るように言ってくれないかしら。母から聞いたわ。元のようにピアノを弾けるようになったのは、あなたのおかげだって。でもね」
 ミドリさんは腕組みしながら、立ち止まって話し続けた。
「本当にピアノを続けたいのなら、戻ったほうが彼のためになるのはわかるわよね」
 寒くて凍えそうだ。だけど体の中が、かっと熱くなる。
「そうですね。タカシくんも戻ったほうがいいと言うと思います」
 タカシくんの名前を出すとミドリさんの表情が変わった。私はお構いなしに続ける。
「それに日本に引き留める理由もないです。私は来月にはアメリカにいますから。アカネさんに聞いてください」
「じゃあ、話してくれるかしら」
 「私には関係のないことだと思います」
 それだけ言うと、走り出したい気持ちを抑えてゆっくりと歩き出した。最悪。最低。
 私は家に戻ると、蜂谷さんのいつも聴いているほうのCDをボリューム一杯にして聴いた。そして泣いた。
 ママがパートから帰って来た。私は慌てて本を開いて読んでいるふりをする。
「ただいま。今日はおかずを買ってきちゃったよ」
 ママはそっとしておいて欲しいときに限って話かけてくる。私が返事をしないので顔を覗き込んできた。
「泣いていたの? ここが気に入って、引越したくない?」
 私は違うよと言おうとして首を振った。頭を動かしたらまた涙がこぼれてしまう。
「じゃあなんで?」
「何でもない」
 私はママには学校のこととかヒロシくんのことは話したくなかった。テツコさんには話しているくせに。ママが私の正面に座り込む。
「三学期になってからずっと変だよね。学校で何かあった?」
「今頃気付いた? いじめられているのは前の学校の時からだし、友だちにはスマホも持ってないから連絡できないし家にも呼べない。ブスでバカで貧乏な子の気持ちなんてママにはわからないよ!」
 ママの表情が凍りついていく。
「いじめられているって本当?」
 私の完全な八つ当たりだ。ママを悲しませたって何の解決にもならないのに。
「ママ、何かおやつある?」
 私は大きめのクッキーを五枚食べたところでママに謝った。甘いものを食べて気分が落ち着く。
「ごめん、ママ。引越はしたいけど、マリアちゃんと離ればなれになると思ったら、ちょっと悲しくなっただけ。いじめとかじゃないよ。女子ってさ、ちょっと周りと違っている人の悪口とか言うでしょ。それならママにもわかるよね?」
 そう言うとママは深くうなずいている。ママは完全に女子に嫌われるタイプだ。
「来週、マリアちゃんにうちに泊まってもらってもいい? それからクラスの子たちに遊びに来てもらうかも」
 ママはほっとしたようだ。私はマリアちゃんのお誕生会の時に、今度うちにも泊まりに来て欲しいと言ったのに、まだ実行していなかった。どうせ遠くへ行ってしまうのだ。別にみんなにどう思われても、もう気にすることもない。

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