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栗屋敷のユリ【第37章】恋は野の鳥

ビゼー:歌劇「カルメン」より「ハバネラ(恋は野の鳥)」
 栗屋敷までたどりつくとピアノの音が聴こえてきた。頭が痛いのになんとなく洋館に寄って聴き入ってしまう。ヒロシくんは私に気がつくと窓辺まで来て、そこで待っていてと言っている。何か急いでいる感じだ。玄関からアカネさんのサンダルを履いて出てきた。
「四月から日本の音楽学校に行こうと思います。ドイツの母は反対していますが…」
 ヒロシくんがずっとそばにいる。私はうれしいのに、つらい気もしてただ黙ってうなずいた。ヒロシくんが心配そうに聞いてくる。
「どうしたのですか?」
「ちょっと頭が痛くて。久しぶりに学校に行って、疲れちゃったのかも」
 私はこめかみに手をやって、その場を立ち去った。
 家の前まで来ると、テツコさんがクローネンバーグを抱きかかえていた。
「テツコさん、助けて」
「そんな気がした。まあ、お茶でもしましょうか」
 家に帰るとパパもママも出かけているみたいで、テーブルの上にパンが置いてあった。なんだか食べる気がしないので、テツコさんの家にいると書き置きして家を出た。
 テツコさんの部屋の大きなクッションにうつぶせに乗って、手と足をバタバタさせる。テツコさんはハーブティーを入れてくれている。今日あったことや今までのことを一通り話すと、少し気持ちが落ち着いてきた。
  「恋多き女だねえ。私は木村に一票。『いつかまた、この場所で会おう』」
 ギャーッ。テツコさんがクロを相手に感情を込めて言うので、赤面して起き上がる。
  「そういうんじゃないから! だいたい木村は私の気持ちなんて、どうでもいいと思っている」
「相手にどう思われようと、好きという気持ちに変わりがないのが本当の恋。ねえ、クロ」
「ミャーオ」
 クロがそうだというように鳴く。私はヒロシくんにどう思われているか、こんなことを言ったらどう思われるかと気にしてばかりいる。それは本当の恋ではないってこと? 私が本当に好きなのは、もしかしてこの世にはいないタカシくん? または十五年前の蜂谷さん? いったいどうなっているのだ。
 今度はクッションに仰向けに寝転ぶようにして座る。私は天井のシャンデリアを眺めながら考えた。私が好きなものは赤いバラが似合うもの。そこを間違ってはいけない。ヒロシくんの顔は濃い。木村の顔は薄い。だけどヒロシくんは赤いバラを持って踊るだろうか? なんかしなさそう。木村なら赤いバラの花びらを巻きながらでも踊るだろうな。うーん。好きになってくれるから好きになるの? 
「テツコさん、恋ってなんか大変なことばっかりだね」
「大変なことでも何にもないよりはましなのよ。あと三十年たったらわかる」
 私はすり寄って来たクロを抱えてため息をついた。急にお腹がグーッとなって、朝から何も食べていないことを思い出した。
「ユリちゃんもまだ食べてないの? パスタづくりでも伝授しましょうか」
 テツコさんは私を呼んで台所に立った。深いお鍋にたっぷりの水を入れて、思っていたよりも多めの塩を入れて沸かす。フライパンにオリーブオイルとスライスしたニンニクとトウガラシを入れて弱火にかけるといい匂いが漂ってきた。
「スパゲッティは久しぶり! ママがグルテンフリーとか言い出して、もう勘弁してって感じ。そのうち食べられるものがなくなっちゃうよ。私は青虫じゃない!!!」
「お腹がすいて気が立っている? はい、とりあえずこれ」
 テツコさんがチョコレートをくれる。口の中に入れると甘さが脳まで広がるような気がする。
「百グラムでいいかな」
 テツコさんはパスタをスケールで量っている。お湯の中にパラパラと入れると、今度はキッチンタイマーをかけた。
「ちゃんと量るんだね。時間も」
 ママはいつも適当だから、少なすぎたり多すぎたり、軟かすぎたり固すぎたりするのか。
 テツコさんはトマトの水煮の缶詰を開けるとフライパンに入れた。塩、コショウを足して、乾燥させたハーブも入れている。このハーブは私のハーブガーデンでとれたものだ。
 タイマーがなるとテツコさんはトングでパスタを一本だけすくいあげて、私の口元に持ってきた。
「なんかまだ固いけど」
 私がそういうとまた一本すくって自分で食べてから言った。
「このくらいでちょうどいいの」
 そう言うとパスタをトングですくってフライパンのトマトソースに入れた。
「お湯は切らなくていいの?」
「この水分がコツなのよ。全部お湯を切ったらくっついちゃうでしょ」
 そうなのだ。ママがやると団子のようになっている。テツコさんは手早く混ぜるとお皿にきれいに盛り付けた。そして冷蔵庫からチーズの塊を出すと、おろし金で高い位置から振りかけた。
「すごくおいしそう!」
 お腹がすいていたというのもあるけれど、レストランで出てくる一皿のようだった。
 お料理に集中していると、モヤモヤと考えていたことが吹き飛ぶ。おいしいものを食べると幸せな気分になる。
 私は片づけを全部一人でやらせてもらった。食器や鍋を洗っていると気分がさっぱりとするのだ。
 頭が痛いのも、明日、学校に行きたくないと思ったのも、とりあえず吹き飛んだ。

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