栗屋敷のユリ【第45章】愛の挨拶
エルガー:「愛の挨拶」
「ユリちゃん、日本に来るときはうちに泊まっていってね。本当にさみしくなっちゃうわ」
アカネさんは途中で食べるようにと、ママにおにぎりを渡してくれた。テツコさんはクロを抱えたまま、私に小さなメモを渡してくれた。
星はいつも見守っている。昼も夜も雨の日も
これって何かの詩? 私は空を見上げて深呼吸をした。クロがテツコさんの腕から抜け出すと、私とママの足元にすり寄って来た。
土門さんは仕事で朝早くに出てしまうので、昨日のうちに挨拶をしておいた。マリアちゃんも昨日の夕方に遊びに来てくれた。
栗屋敷の前にタクシーが入ってくる。近くの駅まで行って、そこから電車に乗る。先に荷物は送ってしまったので、手荷物はスーツケース三つだけ。引越してきた時には段ボールの山だったのに、本当にさっぱりとして少ない荷物だ。
タクシーが道に出ると自転車が脇についてきた。木村だ。必死に前を見てこいでいるので、私が手を振ったのも気が付かないみたいだ。大通りに出てタクシーが信号で止まっても、木村はそのまま走り続けている。信号が変わって自転車を追い抜くと、ようやく木村は走るのをやめて、手を大きく振りはじめた。
「青春だな」
パパも振り返って笑っている。
私は後ろを向いたまま、遠くなっていく景色を眺めた。いつも聴いている蜂谷さんの曲を思い浮かべる。
私はどこへ行っても変わらないだろう。約束を忘れるのは私ではなく、木村のほうだと思う。でも、約束したことには変わりがない。好きか嫌いかと聞かれれば、私は木村のことが好きだとはっきり言える。だけど、木村には言わなかった。
「ママ、そろそろ行かないとじゃない?」
搭乗時間になっても、ママがスマホを見ながらあたりを見回している。
「うん、そうなんだけど、もうちょっと待って」
それから十分ぐらいして、もう一度スマホを見てからママは立ち上がった。
「ユリちゃん!」
搭乗ゲートに行こうとしたときに、遠くから大きな声で呼ばれた。
「蜂谷さん? 仙台じゃなかったけ」
ママの顔を見ると笑っている。
「サプライズだって」
蜂谷さんは走ってやってきた。黒い帽子にサングラスをかけて芸能人みたいだ。
「いやあ、間に合ってよかった。思ったより道が混んでいて」
蜂谷さんは息を切らしながら話している。
「ユリちゃんにこれ、ウクレレ。持ち込めるサイズだから大丈夫だと思うけど」
「私に?」
「簡単だから弾いてみて。サインしといたから俺が殿堂入りしたら売ってもいいし」
そう言って蜂谷さんは笑っている。慌ただしく別れの挨拶をすると蜂谷さんもすぐに帰って行った。
「無理して来なくても良かったのに」
私がそう言うとパパが答えた。
「青春だな。永遠の少年」
「ユリにどうしても会いたかったんでしょ」
ママが横から口をはさむとパパは腕組みしながら言った。
「いや、違うね。ミツキにだよ」
ママはあきれている。
「はあ? 何言ってるの?」
「俺にはわかる」
「馬鹿じゃないの」
ママは笑って相手にせず、それきりこのことは忘れてしまったようだ。ママは確かに美人だし外面がいいからどんな人にも好かれる。だけどこれはパパの妄想でしかないような…。
私はパパくらいの歳の人が、誰かを好きになったりするなんて想像もしていなかった。それから自分のママが誰かの恋の対象になるとは思ってもいなかった。そういう風に考えてなかったから、そういう風に見えなかっただけなのかもしれない。よくよく考えると、蜂谷さんは最初に会った時からどんどん変わっていった。それは恋をしたからなのか? 本人だって気付いていないのではないかしら。恋っていろいろだ。
あれこれ考えているうちに飛行機はスピードを上げて走り出し、あっという間に離陸した。きれぎれの雲の下に小さくなっていく街が見える。この空はドイツにもつながっているのだな。ふとヒロシくんのことを考える。
この気持ちがいつまでも消えずにいたら、きっと本当の恋。それならいつか私は一人でヒロシくんを捜す旅に出るだろう。パパやママにはもう二度と会えなくなるとしても。雪の女王の城で涙を流すと魔法はとけて、二人で手を取り合い栗屋敷に帰るのだ。
テツコさんに言わなくちゃ。
本当の恋なら、その人のために全てを捨てることができる
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?