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「『エヴァンゲリオン』ってまだやってたの?」その1

と、驚いたのは2020年春のことだった。ボクにとって『エヴァンゲリオン』はとうの昔にパチンコ屋で流れてるだけのモノになっていたから、新作が劇場公開されるというニュースに驚いた。

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ボクが『エヴァンゲリオン』を初めてみたのは、テレビの本放送が終わった後、深夜にまとめて放送されたときだ。思春期を随分前に終わっていたので主人公たちに共感するなんてことはなく、ただ「今のあんちゃんたちはこういうのが好きなんだな」とか「共食いの場面、気持ち悪いな」くらししか思わなかった。そして「破綻するくらいなら仕事を引き受けなきゃいいのに」と、強く感じた。そしてDVD(だったかビデオだったか)で、実写を織り込んだ映画版を見たときに、「見られるのがそんなにいやなら、作らなきゃいいのに」とさらに強く感じた。
その時点で庵野秀明という作家の格付けはボクの中では終わった。

で、『エヴァンゲリオン』。リメイクされて『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』になったらしい。配信で三作見られたのでとりあえず見てみた。なんか眼鏡の子がいて、「あ、この子、漫画版の単行本の最後に出てた子」というのはすぐわかった。そう、漫画版は最後まで読んでいるのだ。


三作見たので、劇場公開されている完結編を見に行ってみた。タイトルが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』というのがとても不気味で、何故なら最後の記号は音楽の符号で「繰り返し」を表す。「ずっと繰り返させるつもりかよ?」と戦いてしまったからだ。


ということで、その完結編を含めた感想。ネタバレになりそうなので、一応注意を。


完結編。率直に言えば長くて疲れた。
映画を見終わってから帰り道歩きながら「なんでこんなに疲れたんだろう?」と反芻。
直感的に出てきたのが
事態は進むけどストーリーは進んでないから
だった。
物語ってのは時間の古い方から新しい方へ流れていく。流れながら事態が移り変わっていく。
完結編でも新しい方へ事態が流れていく。事態を表す絵はある。事態を説明する会話はどっさりある。
そのどっさりの会話に頼らないと事態がわからないのだが、わけのわからないタームがこれまたどっさり紛れ込んでいて、それがまた脳みそを疲れさせる原因でもあった。
でも、事態の流れを表すストーリーがここにはない。


「ストーリーがないわけないだろう?何見てるんだよ」
と怒る人もいるでしょう。けど、ボクには感じられなかった。
ストーリーというのは、登場人物がアクションし観客が読み取るモノだ。
完結編で一見ストーリーを描写しているように見える箇所は、本当に肝心な箇所ではない。肝心な場面は全部会話なのだ。
例えば第三村のシーン。ここではそっくりさんが人間的な感情を手に入れていきながら、その故に消えざるを得ないというシーンだ。その人間的な感情を手に入れるシーンを
「これが○○」
「これが××」
「この村が好き」
と、全部言葉で言っちゃってる。
対決のシーン、知略も力も父親に敵わない主人公がどうするかっていうと
「父さんと話したい」
と、本当に話し始めちゃう。アクションがないのだ。

最後の場面もそうだ。14歳のままだった少年少女が場面が変わってどうしてか大人になっている。重要なのは14歳であることをやめて歩き出し、過去をかみしめ未来を見据えていく姿だろうけど、そこ全然描かれてない。事態の変化がわかるようになっているだけだ。

岡田斗司夫が本作の脚本を激賞し「欠点はゲンドウが歩いてくるところだけ」と言っていたが、ボクからすればアソコに本作の本質がある気がする。
本作の正体は会話劇だからだ。

とはいえ…ストーリーがない替わりに、麻薬的な映像がある。
眼鏡の子が戦うシーンなどは物語と一切関係がないけどとにかく爽快。何が起こってるか全然わかんないけど、とにかく爽快。

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