狐の嫁入り

 雨、と空を見上げていたにこちゃんが小さく呟いた。釣られて上を見れば、確かに雲は多いけれど先程までと変わらずに晴れていた。ぽつりと鼻先に水滴が落ちて、本当ね、と隣の彼女と顔を見合わせる。
 学校帰りにクレープでも食べにいかないか、と誘われて、にこちゃんから誘うなんて珍しいと思いながらも了承したのがついさっきのこと。夏の日差しのきつさに何度かクレープを諦めそうになりながらも彼女と歩く帰り道は、ちょっと煩いけれどそこまで悪くなかった。隣を見ればにこちゃんがいて、楽しそうに今日起きたことを話したり、アイドルのことについて熱心に身振り手振りを交えながら語っていたりして、そんな姿をまじまじと見ることは新鮮で楽しくて。そうしながら、彼女がふと立ち止まったものだから少し驚いたものの、私も隣で同じように止まる。何に興味を惹かれたのかふと上を見上げたにこちゃんが何も言わない間、その顔をぼんやりと見つめていた。子供っぽい輪郭の作りなのに、意外と睫毛は長くて瞬くたびに動くのが綺麗だった。唇は薄い桜色で、何か塗っているのか艶やかだ。なんて、ぼんやり思ったときのことだ。その唇が、二文字に動いた。

「晴れてるのに、雨?」
「……狐の嫁入りね」
「はぁ? 何よそれ」

 てっきり同意してくれるものだと思って発した言葉だったのに、どうやら思った通りには伝わらなかったらしい。変な顔をして首を傾げた彼女は、夏休み前の定期テストでちゃんと勉強していたはずじゃなかったのだろうか。呆れを隠す気も起きなくてひとつ溜め息をついたあと、説明してあげようと口を開く。

「あのねぇ、にこちゃん。狐の嫁入りっていうのは――」
「のわっ! 真姫ちゃん、ちょっとここにいたら濡れちゃうわよ!」
「う、えぇっ!」

 ぐいっと手を引かれて、前につんのめりそうになるのをなんとか堪えた。引っ張られるままに向かった先は、シャッターが閉められた店の軒下。どうやら使われていないらしい店の前には、ダンボールもいくつか置かれていたけれど私たちが雨宿りする分だけのスペースはありそうだ。そこに入り込んでから外を振り返れば、さっきまで立ち止まっていた道のコンクリートがどんどん色の濃さを増していく。ぱらぱらと小雨が降りだしたようだった。

「もう、にこちゃん、いきなり引っ張らないでよ」
「いいじゃない、おかげで濡れなかったでしょ?」
「それはそうだけど……」

 文句を言ってはみても、全く意に介した様子もなく肩を竦められればこれ以上は無駄だと諦めるしかない。どちらにしても暫くはここから動けそうにもなかった。相変わらずの快晴にも関わらず、雨は意気揚々と地面を叩いていて、そのちぐはぐさが目新しく感じる。雨のおかげか、さっきよりも幾分暑さが和らいだような気もした。

「それで?」
「え、何?」
「なんとかの嫁入り、だっけ? 真姫ちゃん誰と結婚すんの?」
「ちょっと……にこちゃん、それ本気で言ってる?」

 頭が痛くなりそうだと思わずこめかみの辺りを抑えると、馬鹿にされたと思ったのかむっとした様子で睨んできたから、どうやら冗談で言ってるわけではなさそうだ。

「こういう、日が照っているのに雨が降ることを、狐の嫁入りって言い方をするのよ」
「……天気雨のこと? へぇ、そうなんだ」
「そもそも、狐の嫁入りの語源っていうのは」
「あ、真姫ちゃん、もうわかったから! なるほどー、にこ知らなかったなー」

 せっかく説明してあげたのに途中で遮ってきたにこちゃんは、わざとらしく腕を組んだかと思えば何度も頷きながら感心している。どう考えても怪しいけれど、それを言えばまた喧嘩になりそうだから何にも言わないでおくことにした。今日は、珍しくにこちゃんが誘ってくれて、狐の嫁入りなんて稀なことも起きて、そんな気分じゃなかったし。

「……にしても、何で私が結婚しないといけないのよ。ばかみたい」
「いきなり嫁入りなんて言い出すんだもん。あれ? もしかして真姫ちゃん、結婚願望ない?」
「そんなことないわよ! あるに決まってるでしょ。でも、そんなのまだ、好きな人さえいないのに……ってこういう話じゃないでしょ、何言わせるのよ!」
「あんたが勝手に言ったんじゃない! って……ふーん、真姫ちゃん、好きな人いないんだ」

 余計なことまで口走ってしまったから早く忘れて欲しいのに、含みのある言い方で繰り返されて「何よ」と反論する。「別にー?」なんて飄々と答えるにこちゃんの表情からは真意は読み取れなかったけれど、じっと見つめていれば自然と目を逸らされた。その横顔は雨を見上げたときの顔とおんなじだったけれど、どことなく寂しそうに見えたから心臓がぎゅっと掴まれたような感覚に陥る。にこちゃんには、笑っていて欲しいと思った。

「な、に」
「……え?」

 目と鼻の先で、彼女が息を呑んだ音がした。何と問われて、何がと返そうとして、自分の右手がにこちゃんの頬に添えられていたことに気が付いて。

「あ、ご、ごめ……っ」

 上手く呂律も回らないまま無理矢理に謝りながら、慌てて距離をとった。
 自分の鼓動がいやに大きく聞こえて、顔が火照っていくのがわかる。一体何をしたんだろう、何をしようとしていたんだろう。にこちゃんには笑って欲しいと思って、寂しそうだから手を伸ばしたいと思って、触れたいと、思って。そして?

「な、何よ、びっくりするわねーもう。あ! もう雨止んだんじゃない?」

 不自然なくらい明るい声色がしたと思ったときには、目の前にいたはずの彼女は軒下から飛び出していた。両手を目一杯広げて、青空を見上げる。にこちゃんがこちらを振り返って、「ほら、晴れたわよ」と少しだけ照れながら、笑った。

「……にこちゃん」
「なーによ。もう、早く行かないとクレープが逃げるわよ」

 相変わらず訳のわからないことを言っているその人が、青空のもと、輝いて見える。今日はなんだか珍しいことばかりだ。にこちゃんと一緒にクレープを食べにいく約束をして、いい天気だったのに突然雨が降ってきて、雨宿りをしようと思ったら自分でもよくわからない行動をしてしまって。だけど、悪くない。ううん、むしろ。

「前言撤回してもいい?」
「……は?」
「私、いたわ。……好きな人」

 世界一素敵な、青天の霹靂。


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