夏バテ

「あっつーい。もう無理だよー穂乃果死んじゃうよー」
「そう思うなら手を動かしてください。いつまでも帰れませんよ」
「えぇー、海未ちゃんの鬼ー」
「穂乃果ちゃん、もう少しだから頑張ろう?」

 ぐったりと机に突っ伏した穂乃果に、もう何度目かわからない言葉を掛けてみても聞いているのかいないのか。ことりがいつものように宥めているのを横目で見ながら、海未は静かに嘆息した。夏休みだからといって穂乃果ら生徒会は完全に休めるわけではなく、休みの間も何回か学校に訪れてやらなければならない作業がある。特に、音乃木坂の弦生徒会長であるはずの穂乃果は、いつも後になって見落としていた分を思い出して「どーしよー!」だなんて言いだすものだから、そういうのもまとまった休みにやってしまう必要があった。だというのに、さっきから机に突っ伏したまま動こうとしない穂乃果に、海未は不満を露わにしながらその手だけは滞りなく動かしていく。今日は運悪くボイラー室のメンテナンスがあって冷房は使えない状態であり、代わりに窓を開けているとはいえ気休め程度だ。なんにもしていなくても汗が滲んでくるくらいの気温ではある。だが、それにしても軟弱すぎる、と海未は感じていた。

「ことり、この書類だけおかーさ……理事長に確認とってくるね。帰ってきたら、今日はもう帰ろっか」
「えっ本当? やったー!」
「ことり!」

 ことりが滑らかな動きで立ち上がって、穂乃果と海未に優しい笑みを向けた。両手を突き上げて大げさに喜ぶ穂乃果と、机に両手をついて立ち上がって抗議する海未。3人の中ではいつも潤滑油のような役割を果たしていて幾度となく助けられてきているのはわかっていても、海未にはことりが穂乃果を甘やかしすぎに見えていた。ことりはそんな海未を見て困ったように眉を下げたあと、再び微笑みを湛えながら口を開く。

「だってね、今日はほんとに暑いし、2人が熱中症になっちゃったら困るもん。それに、海未ちゃんのおかげで今日の分はあと少しだけだし」

 ね? と駄目押しを受けて、海未は押し黙った。昔から、ことりのこういうお願いには弱いのが海未の常だった。

「……わかりました、では、今日はこれで終わりにしましょう」
「わーい!」
「うん! 海未ちゃん、ありがとう。じゃあ、すぐに戻ってくるから、ちょっと待っててね」

 慌ただしく生徒会室を出て行ったことりの背中を「いってらっしゃいことりちゃん!」「気をつけて行くのですよ!」と声をかけて見送って、海未は手元の書類を手早く一ヶ所にまとめて置く。そうしながら穂乃果へと視線を移すと、机に頬を押し付けたまま瞼を閉じている様子だった。帰れるとわかった途端これだ、と海未は表情に呆れを浮かべながらその横を素通りして空いている窓のひとつへと近づいた。

「穂乃果、ことりが帰ってくる前に、戸締りを済ませてしまいましょう」
「ぅえー? 暑くて動けないよう」
「もう、あなた今日はそれしか言ってませんよ」

 外の景色をぼんやりと眺めながら、 端の窓から順に閉めていく。もう午後も大分過ぎているとはいえまだまだ日差しも強く、外は生徒会室よりもずっと気温が高いであろう。緑濃い植物や、元気よく鳴いている蝉、青い空などには夏はぴったりかもしれないが、海未もそこまで暑さに強いというわけではなかった。なにせ、名前が海未なのですから、とどうでもいいことを考えてしまいそうになって恥ずかしさを追い出すように窓の鍵を閉めた。
 全ての窓を閉め終わって海未が振り返ると、相変わらず突っ伏したままの穂乃果が視界に入る。彼女がぐうたらなのはいつものことだが、この暑さだ。もしかして本当に熱中症にでもなって具合が悪いのではないかと心配になってくる。

「穂乃果?」
「んー? なぁに、海未ちゃん」

 返事はあっても、顔は上げないまま。穂乃果のほうに近付いて行って、海未はその背を見下ろして声をかけようとした。手を伸ばしかけて、それが空中で静止する。机にうつ伏せているせいで、穂乃果の髪は重力に従って下へと落ち、普段は見えないうなじが丸見えになっていた。この暑さだから当然のことなのだが、その白くて細い首にもいくつか汗の玉が浮いている。その瞬間に自分がなにを思ったのか、海未にもよくわからなかった。空中で止まったままだった指先を、迷いなくそこに触れさせた。汗の一粒を拭い取るように、人差し指でうなじをゆっくりとなぞる。

「ひゃあ!」
「……っ」

 指先がブラウスの下に入り込むよりも早く、穂乃果が奇声をあげながら音を立てて立ち上がった。当たり前といえば当たり前ともいえる反応に驚いて、海未は数歩後ずさる。がしゃんと音を立てて倒れたパイプ椅子にはその場の誰も反応しなかった。

「う、海未、ちゃん? なに、して」
「あ、穂乃果、ごめんなさ……い」

 穂乃果が両手でうなじをおさえながら、涙目で海未のほうを振り返る。驚かしてしまったことを謝罪しようと海未が発した声は、途中で掠れてしまっておそらく聞き取れなかっただろう。穂乃果の顔は、耳まで真っ赤だった。
 ほとんど初めてといってもいい穂乃果のそんな表情に、海未はほとんど呆然として突っ立っていた。窓を閉め切って外の音がほとんど遮断された空間で、自分のあり得ないくらいに煩い心臓の音だけがやけにはっきりと聞こえていた。なにか言わないとと思っても、言葉が出てこない。穂乃果もそうなのか、海未と目線を合わせたまま、なにも話そうとしない。こんなことは、初めてだ。ぽたり、といつの間にか海未の顎を伝っていた汗が、室内のタイルの上に落ちた。

「穂乃果ちゃん、海未ちゃん。遅くなってごめんね……って、あれ? どうかしたの?」

 突然ドアが開いて、少し高めのおっとりとした声が空間に割り込んだ。瞬間、穂乃果と海未はお互いから視線を外して、ドアのほうへと向く。そこには、一斉に注目されて戸惑った様子のことりがいた。

「な、なんでもありません!」
「う、うんそうだよ!さ、帰ろ帰ろー!」

 さっきまでの気まずさは一気に霧散して、いつも通りの穏やかな空気が舞い戻ってくる。海未も内心ホッとしながら、顎の汗を手の甲で拭った。いつの間にか、すごい汗をかいていた。
 穂乃果が椅子を戻しながらことりに理由を聞かれて、へらへらと笑って誤魔化すのを見てしまって海未は羞恥にどうにかなりそうだった。頭を数回振ってしゃっきりとさせる。精神統一です、園田海未。あれは、そうきっと暑さのせいだったんです。そうに違いありません。呪詛のように、口内で繰り返す。

「海未ちゃーん、早く帰ろう?」
「そーだよー! あ、ねぇねぇ、帰りにアイス食べてかない?」

 は、と海未がことりの声に意識を引き戻されて顔をあげたときには、幼なじみたちは既に帰り支度を済ませてしまっていた。慌てて海未も鞄を肩にかけて、2人のあとに続く。 

「あ、ちょ、ちょっと待ってください! 穂乃果! ことり!」

 いつも通りの3人で他愛もない話をしながら、廊下を歩く。生徒会室よりも幾分、涼しい。相変わらず穂乃果は食べ物の話をしているし、さっきのことはもう気にしていないようだった。そんなことを考えながら海未が安堵していると、ほんの一瞬だけ穂乃果がこちらを見る。目が合ってすぐに逸らされてしまったから、もしかしたら思い違いだったのかもしれなかったが、またさっきまでの妙な感覚が蘇ってしまいそうになって気が気じゃなかった。正体はよくわからないにしても、これが幼なじみに抱いていい感覚ではないことぐらいは海未にも理解できる。
 左手を持ち上げて、不審に思われないようにそっと自分の頬に触れる。さっきよりも顔が火照っている気がしたのは、きっとあんな暑い空間にいたせいだ。そう思って、海未は小さく息をついた。

「精神統一、です」



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