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無筆の哀しみ

 無筆とは文盲のことである。会話はできても文字の読み書きができない。「親という二字と無筆の親は言い。」これは太宰治の短編、「親という二字」の冒頭に紹介される川柳である。
 親が子供にどこへ行っても親という二字を忘れないでおくれと言う。漢字を知っている子供は親は一字だよと応える。親は無筆・・・文盲なので、「親」という漢字を知らず「おや」という音だけは知っている。だから、「親」は「おや」の二文字なのだ。
 どこかに丁稚奉公でも行くのであろうか、親は子のことを思い、忘れないでおくれと言う。子は文字を知らない親のことを思い、
「おや」は一文字だよと言う。これは哀しいやりとりである。また親と子のお互いを思いやる気持ちが表れていて愛(かな)しい。
 今の日本は識字率99%で文盲のひとはほとんどいない。しかし、戦前戦後の混乱期に教育を受けられなかった人がいて、文盲の人がいる。
 読み書きそろばんと昔言われたが、日本は江戸時代から、識字率は高かった。それが、明治維新以降の発展を支えたともいえる。
 文字は知識である。会話だけでは知識は共有できない。中学・高校でリーダー、グラマーが重要視されたのはこのためである。中学高校と6年間英語を学んだのに英会話ができないひとが多いと意見する向きもあるが、会話は必要に迫真ればある程度はできるようになる。
 私の住んでいる地方都市においては、来る外国人は大抵日本語を話すので
拍子抜けする。確かに英語がペラペラ話せればカッコイイがその程度である。
 表音文字である英語と表意文字である漢字を使う日本語では、日本語の方がはるかに複雑である。おまけにひらがな、カタカナまである。
 昔、種子島に鉄砲が伝来したとき、通訳は中国人であった、そこで日本人と中国人は漢字を紙に書いて意思疎通をしたという。漢字であれば読み方は日本と中国では異なるが、意味は通ずるからである。
 無筆の親や子がいなくなった日本は、ちいさな哀しみがなくなっただけ心がちょっとうれしい。

 

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