メディアの話その124 クソ漫画とエコーチェンバーと暇つぶしとメディアの今

講談社の現代ビジネスの記事。

「LINEマンガ」上で9本の連載を抱え、うち6本は常に人気トップ 10 入り、連載開始からの総合ビューは9本合計2億ビュー超という圧倒的な成果を挙げるマンガ家・外薗昌也&その息子であるマンガプロデューサー・外薗史明が手の内を明かした著作のタイトルは『クソコンテンツを爆売れさせた ハリウッド流マーケティング術』(クロスメディア・パブリッシング)。

オリジナルはこちらの本。

『クソコンテンツを爆売れさせた ハリウッド流マーケティング術』(クロスメディア・パブリッシング)。https://www.amazon.co.jp/dp/4295405906

くわしくは記事と本を読んでいただくとして、注目すべきは、「クソコンテンツ」(と作り手自らが明言する」漫画が、「書籍」のかたちではなく、課金制のline漫画だと、紙だけの時代の十倍の稼ぎを叩き出す、という事実である。

↓ 引用

外薗 直接的な印税収入だけで言えば、父が講談社で『犬神』などを連載していた頃は年3000~4000万円だったのが徐々に落ちてきて僕が入る以前の2011年頃には1500万円くらいになっていました。

そのころは連載が取れるか取れないかくらいになっていて、“かつて「アフタヌーン」「モーニング」で連載していた”という講談社のブランド力で食えていた状態でした。それが現在では連載を週10本抱え、この数年間で20数作品手がけ、その半分以上が継続しています。印税収入は僕が関わる前の約10倍になっています。

といってもLINEマンガに連載媒体を移してからは紙のコミックスはほとんど売れてないんですね。LINEは版元として見ると紙の単行本の販売ノウハウが弱く、リアル書店の棚が取れない。『鬼畜島』は以前、竹書房で連載していたときのほうが紙は10倍売れていました。だから今は実質、紙を捨てています。

引用ここまで。

 インターネットが網羅するだれでもマスメディア時代は、最高のコンテンツ、最高の知性に、「その気になれば」フリー=すぐにアクセスできる。場合によると、フリー=無料で。

そんな「フリー」な条件が整っている一方で、なぜ「クソコンテンツ(と製作者自身が明言するコンテンツ)が、たくさんの読者を同じインターネット上で獲得できるのか。

身に覚えがある。

ちょっとした時間があるとき、休日の朝、仕事が終わって風呂に入るとき。私は、大量の「すごい本」が手元に積み上がり、無限の「すごい知性」がネットに網羅されているにもかかわらず、「かつて読んだ漫画の電子版」「友人知人のTwitterやフェイスブックの投稿」などをついつい開いてしまい、貴重な時間をあっという間に浪費してしまう。

つまり、私自身が「クソコンテンツ」に自分が持っている最大の資産「時間」を捧げてしまっていることがしばしばあるのだ。

経済合理性から考えても、私がやっていることは明らかに「損」である。

では、なぜそんな「損」なことをやってしまうのか、私は。

自問自答すると答えはすぐ出る。

①「楽だ」からである。

②「あんまり考えなくてもいい」からである。

③にもかかわらず「それなりに気持ちがいい」からである。

人間という生き物は「好奇心」を持っている。この「好奇心」があるおかげで、アフリカから出て世界中にはびこり、文化文明を発達させ、なんとか生き延びてきた。それが人間という生き物である。人間の「好奇心」は、生き残る上で優位な「本性」として磨かれてきた。

では、なぜインターネット空間に膨大な情報が流れ出てきた時、私たちは「クソコンテンツ」に手を出してしまうのであろうか。

私たちの中に、「好奇心」以上に強い、情報を摂取する際の「キャラ」があるからではないか。

その「キャラ」は、ある意味で「いままで知らないもの、知らないことを知りたい、確かめたい、発見したい」という「好奇心」と逆である。

おんなじような人たちの、おんなじようなコンテンツを、おんなじように、繰り返し消費したい。

そんなキャラである。

このキャラは、インターネットによって生まれたわけではない。好奇心同様、私たちのなかにあるものだ。

私たちは、脳みそのサイズがずっと変わっていない。だから、「百五十人の村」で生き続ける。進化生物学者のロビン・ダンバーがいうところの「ダンバー数」の世界で暮らしている。

自分の所属する「村」のなかでうまくやっていくためには、「好奇心」だけではダメだ。ある種のぬるい協調性が必要だ。

「すでに知っている」「親しい」ひとたちとの「マンネリなコンテンツ消費」を行い、お互いのことを知り続ける、確かめ合い続ける。猿の背中をかき合う行為のように、グルーミングのように。まんねりなクソコンテンツ消費を私たちが好むのは、私たちが「百五十人の村」でうまくやっていくための、もうひとつの「本性」ではないか。

そう考えると、あらゆる売れるコンテンツは「好奇心を満たしてくれる新しさ」と、「自分にとって親しみのある古さ」とがミックスされたものである。

「クソコンテンツ」漫画もまた、そうである。エコーチェンバー現象は、村のなかの「会話」である。

続きます。


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