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橋本と茅ヶ崎と16号線とユーミンと鉄道資本主義とシン街道資本主義と。

荒井由実=ユーミンの初期の傑作に『天気雨」がある。

茅ヶ崎のサーフショップ「ゴッデス」がとりあげられたことで、サーフィン愛好家の間でも有名な歌だ。

白いハウスをながめ

相模線にゆられて来た

茅ヶ崎までのあいだ

貴方だけを想っていた

「天気雨」(作詞作曲 荒井由実 1976  アルバム『14番目の月』より)

主人公は、鉄道に乗って、茅ヶ崎に行き、

彼〜サーファーだろう〜への片想いを歌う。

ユーミンの歌は、自動車が似合う。

私自身『国道16号線』で、ユーミンの数々の歌と国道16号線とのかかわりあいについて詳細に綴った。

でも、この歌の主人公は鉄道で茅ヶ崎へと向かう。

その電車は相模線だ。

JR相模線は、相模原市緑区の橋本駅から茅ヶ崎駅までを結ぶマイナーな鉄道だ。

もともと相模鉄道の持ち物だったものを国鉄が買収し、相模川の砂利を運搬する貨物鉄道としての役割が中心だった。電化するのもおそく、なんと1990年代になってから、ようやく電化された。一時は、国内でも有数の「儲かってない鉄道」だったという。

そんな、いかにもマイナーでさびれた風情の「相模鉄道」を若きユーミンは歌う。

なぜか。

それは相模鉄道が、ユーミンの地元八王子と茅ヶ崎を最短距離、最短時間で結ぶ路線だったからだろう。

(ちなみにユーミンは、1976年11月14日NHKホールのライブを収録したNHKFMのラジオ番組で、「電車に乗ったりするのはすごく好きで、私が住んでいるところ(八王子)からは、いろんな電車が出てるんですけど、なかでも、あんまり乗ったことはないんですけど、好きなのは八高線という電車で、八王子から高崎までいくんですけど、それがいろんな風景を通っていくんですね。米軍の白いハウスとか、あと、工場地帯とか、すごい麦畑だったり、山あり谷ありでつくんですけど。次はそんな風景を歌ったうたです」と、相模線の歌、「天気雨」を歌う

https://www.youtube.com/watch?v=Gj3LK_ooMJs)

歌に出てくるゴッデスは、日本でいちばん古いサーフィンショップだ。1964年、東京オリンピックの年に、茅ヶ崎にできた。

東工大の同僚で、サーファーでも知られる西田亮介さんが、こんな論文を残している。引用させていただく。

ーー 日本で最初のサーフィン専門店は、1964年に茅ヶ崎で開店した「湘南サーフショップ」である。この店は当時の青年向け週刊誌『平凡パンチ』で、店舗の外観や内部などの絵入りで詳しく紹介されている9)。店はサーフィンブームに乗って事業を拡大し、(有)ゴッデス・サーフボードからゴッデス・インターナショナル(株)へと名称も変え、店舗は湘南地区だけでなく、千葉や名古屋、和歌山、そして、ハワイまで広がった。そして、シンガーソングライターのユーミン(荒井由実)の「天気雨」(1976年、東芝EMI)には、「サーフ・ボードなおしにゴッデスまで行くと言った。じゃまになるの知ってて無理にここへ来てごめんね」と歌われるなど、サーファーでなくても知られるようになった。
『茅ヶ崎市のサーフィン関連産業の発祥と推移 The History of the Industries Related to Surfing in Chigasaki-City 小林勝法*,西田亮介**,松本秀夫*』(湘南フォーラムNo16)より

ユーミンは1954年生まれである。10代半ばのおそらく高校生のユーミンが1960年代終わりに、片想いの彼が波に乗る茅ヶ崎まで、実家の八王子から横浜線に乗って橋本まで行き、その橋本から、電化されてない単線の相模鉄道に乗り換え、ひとり窓の外をみながら、向かう。

白いハウス、は、いうまでもなく、米軍ハウスだ。

相模原には、いまでも橋本のとなりの相模原駅前に米陸軍相模総合補給廠があり、南には米軍厚木基地がある。かつて茅ヶ崎にも米軍施設があった。米軍ハウスは、16号線沿いの狭山・入間や福生などが有名だが、神奈川の西にもずいぶんたくさんあったのだ。

茅ヶ崎に住んでいたことがある。1971年から1973年にかけて。小学1年生から3年生まで。桑田佳祐が歌った(そしてアルバイトしていた)ホテルパシフィックにほど近い、海から数百メートルのところにある小学校に通っていた。親父の銀行の寮もその小学校の隣にあった。茅ヶ崎カントリークラブ越しに、3階のベランダから、134号線と海が見えた。夜になるとホテルパシフィックのサーチライトが届いた。海風が、134号線を走る深夜トラックの、遠吠えのような走る音を、枕元に運んできた。

ユーミンが歌った茅ヶ崎は、私が住んでいた時期のほんの数年前のことだったろう。

当時の茅ヶ崎は、ひなびた海沿いの小さな町だった。住宅はまばらで、松林がそこかしこにあって、鉄砲道路は舗装されておらず、畑と造成途中の原っぱがひろがっていた。

私自身は海を見るのが好きだったから、友達と自転車で海岸まで行った。茅ヶ崎の海は、海水浴には不向きだ。遠浅じゃないし、波もある。だからサーフィンの聖地になったのだろう。でも、私の記憶にサーファーはいない。代わりにいたのは、仮面ライダーxだ。放送直前にロケをしていた。仮面ライダーに近寄ろうとしたら、スタッフに怒られた。のちに放送が始まったら、見慣れた茅ヶ崎の海岸が出てきた。仮面ライダーもスタッフも、おそらく前のりして、ホテルパシフィックで遊んだに違いない。そんなことを思ったのは、50歳も近くになってからのことだ。

で、橋本だ。2021年10月の午後、橋本に行った。

リニア新幹線が2027年にできる(多分遅れる)。

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リニア中央新幹線は、東京・品川と名古屋を最短40分で結ぶ。

東京・品川、神奈川・橋本、山梨・甲府、長野・飯田、そして愛知・名古屋。

橋本は、東京へも10分、名古屋方面にもおそらく40分程度でついてしまう、非常に便利な場所に変わる。

しかも橋本は、すでに3つの鉄道が乗り入れており、うち2本は始発である。

1つは八王子と横浜を結ぶ、横浜線。もう1つは、橋本が始発の、そう、ユーミンが乗った茅ヶ崎へ向かう相模線。そしてもうひとつが、新宿へと向かう京王線だ。

横浜線を使えば、新幹線新横浜駅にも1本で行ける。

交通の便がこれだけ劇的に変化する街は、おそらく今後首都圏ではしばらく現れないだろう。2027年(たぶん遅れる)なんて、あっというまにやってくる。ならば、街はどう変わっているだろう。

橋本は、八王子街道と大山街道が交差する、明治以前まで遡ると非常に重要な交通拠点だった。

江戸が関東の中心になり、さらに東京が日本の中心になって以来、橋本のある多摩丘陵と相模原台地の間は、次第に辺境になった。

もともと、ここには八王子から横浜に抜ける八王子街道が走る。絹の道だ。現在の国道16号線の原型でもある。

そう思って訪れたのだ。

とりあえず、結論から先に書く。

なんと、なにもなかった。工事現場だけがあった。

なにがないか。

橋本の駅前をくまなく歩いたのは今回がはじめてなのだけど、ダウンタウンがない。飲み屋街や歓楽街にあたるエリアがほとんどない。

橋本駅は東西で町が分かれている。地上を走る横浜線が分断しているからだ。

今回、リニアの駅ができるのは、西側である。駅前にあった高校の跡地が、盛大に掘り返されてぐるりとフェンスで覆われている。もともとあった県立相原高校は、1922年、農蚕学校として歴史をスタートした。16号線の養蚕文化を象徴するような学校だったのだ。2019年の工事開始に伴い、移転している。

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まず、写真の向こうに見えるイトーヨーカ堂がメインのテナントであるモール、アリオ橋本に行って、車を置いた。1階には、くまざわ書店アカデミアがある。この書店がある、ということは、それなりの「読書好き市場」がこのエリアにある、ということだ。『国道16号線』も在庫が一冊あり(みつからなかったけど)、昔、小林弘人さんと出した『インターネットが普及したら僕たちが原始人になっちゃったわけ』も置いてあった。ありがたや。

ちなみにWikipediaによれば、こんなモールだ。

閉鎖された日本金属工業相模原製造所跡地[3]に建設された、相模原市内最大のショッピングモール。設計施工は大成建設。2010年(平成22年)9月15日にプレオープン、同年9月17日にグランドオープンした。アリオとしては9店舖目、核店舗のイトーヨーカドー単体では日本全国176店舖目で、神奈川県内31店舖目の店舗となる。なお、アリオ深谷は9月1日に食料品フロアのみがオープンしている[4]が、こちらは元々イトーヨーカドーの入居していた既存SCのリニューアルであり、専門店部分は開店前であることから、セブン&アイ・ホールディングスおよびイトーヨーカ堂では橋本を9号店[5]、深谷を10号店としている。
ショッピングセンターは核店舗のイトーヨーカドーと、136の専門店で構成される。橋本地区においてのイトーヨーカドーは線路を挟んだ反対側に2008年(平成20年)5月18日まで橋本店が存在したため、実質的な再出店といえる。

引用ここまで。

モールを出て、工事現場をぐるっと一回りしてみる。もともと県立相原高校のあった敷地だ。周囲は高架線が通り、住宅街である。さきほどのモール以外にめだった商業施設はない。国道16号線は、工事現場から200メートルほどさらに西側を通っている。このエリアには16号線沿い名物のモール街はない。西側にあるモール街は、JR横浜線を16号線が渡ったすぐ左手。このエリアに高層マンション群とセットで、コジマビッグカメラ、コメダ珈琲、オーケーストア、コーナン相模原、ロピア、そしてメディカルセンターに郵便局が集結している。こちらももともとまとまった工場の跡地だろうか。

工事現場のはじっこには、ちょっと洒落たパン屋さんとイートイン。テレビで紹介されたパスタソースの自動販売機が設置されたイタリア料理店があった。高校生がたくさん歩いている。どうやら付近は高校だらけのようだ。

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駅の西口は、駅前もふくめてほぼ見事に何もない。駅の建物に併設されたスーパー、小さなブックオフ、イタリア料理店がちらほらあるだけである。これがリニア中央新幹線の駅前になる、とは思えない風情である。

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駅にあがってみると、乗降客数は多い。京王線の終着駅で、夕方は大量の高校生がおり、横浜線・相模線へと乗り換える。駅中にはユニクロなどがある。

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橋本の町は東側がメインだ。2階にあたる出口から通路が四方八方に伸び、駅近の高層マンション、目の前のイオン、そして図書館などが併設された公共施設につながっている。地元高校生が大量に駅に吸い込まれる。数が多いので、高校の先生が交通整理を行なっていた。

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一方、1階におりて、街を歩いたが、3つの電車があいのりするターミナル駅にしては、おそろしくダウンタウンが発達していない。1990年代以前の、新横浜駅と似た、「あとからつくった駅前」の匂いがする。古い街道沿いの街の風情、徒歩で人々が飲み食いしたり、生活したりしている歴史の空気がないのだ。

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駅からちょっと離れたところには、映画館のモールがあり、手前にはちらほら飲み屋がある。が、いずれも最近できた建物であり、歴史があるダウンタウンではない。イオンの向こうには、つぶれたバブルの匂いがする結婚式場がそのままになっていた。

橋本そのものは、古代からの交通の要諦だ。相模原台地の縁で、東側には境川が流れ、その向こうは多摩丘陵だ。八王子方面や富士山・山梨方面からの街道の出口にあたるところで、近隣には旧石器時代の遺跡などもある。八王子街道=現在の16号線は、町田を抜け、横浜に至る。近代の生糸産業を支えた重要なルートだ。また、大山信仰とつながった、丹沢の大山に抜ける大山街道が八王子街道と交差をしている。

似たような場所があって、それが町田だ。町田は駅前東に町田街道が走り、西側に八王子街道が走る。すぐ南には大山街道(国道246号線)が走る。町田の駅前は、非常に賑わっている。大型百貨店やモールばかりではなく、旧町田街道沿いには地元書店や飲み屋や、かつての街道の賑わい忍ばせる馬肉料理の店、また、すでに全国レベルで有名な乾物屋の富沢商店の本店もある。生糸をはじめとする物流の拠点で、横浜方面からやってきた各地の物産が集積し、馬がいた、昔からの街道文化がきっちり現在の街の賑わいとつながっている。

なぜ、町田が発展しているのに、橋本はこうした街道文化の空気がなくなっているのか。その理由は一回歩いただけでは、正直わからない。

が、この町は、新宿と茅ヶ崎まで1本の電車でつながっている実にユニークなターミナル駅である。湘南と新宿が直結しているのだ。そこにリニアの駅ができ、かつ国道16号線が駅前を通っている。

日本、とりわけ首都圏は「鉄道資本主義」の街である。近代、鉄道がこの首都圏をつくった。都心を中心に同心円状に広がる世界。必然的に、中央と辺境、働く場所と住う場所が、同心円に分布するようになった。橋本は、その同心円のはじにあたる。国道16号線が同心円の端なのだ。

が、1990年代半ば以降、自動車の普及が広がり、一方で鉄道の開発が一巡して、すでに日本各地では当たり前になっていた「シン街道資本主義」が、首都圏にも到来した。そう、自動車が交通手段の主人公に躍り出るようになったのである。かつては、徒歩とせいぜい馬の世界だったのが、自動車の普及で、鉄道網と独立したかたちで、シン街道資本主義は、日本を覆った。

そんな時代、鉄道はむしろインターネットに近いバーチャルなタイムマシン、あるいはどこでもドア的な機能となる。橋本に関して言えば、なんと、名古屋と茅ヶ崎と新宿がすべて1時間で行けちゃう場所になるのだ。

一方で、ふだんの暮らしは自動車が足となる。だから駅前ではなくモールが住人たちのインフラになる。

シン街道資本主義と、シン(幹線)鉄道資本主義が交差する街。

橋本がこれからどんな街に変化していくのか? しばらく通ってみることにしよう。


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