国道16号線の話 観光という見立て。

SNSを眺めていると「「国道16号線」なんか東京近辺の道の話だろ。俺、××(関西とか九州とかレユニオンとか)だから関係ないわ 全国放送でやるな」と言った意見を書く人が何人かいる。

それがとっても面白い。

というのも、同じ人が「湯布院」や「西表島」や「上高地」や「パタゴニア」や「アンダマン諸島」といった自分の地元じゃない場所のテレビ番組をやっていても、「うちの地元じゃないから・・・」とは感じないからである。絶対に感じないはず。断言できる。

なぜか。それは、その場所に興味があるかどうかはさておき、「観光」に関する番組だ、と思うからである。

「観光」というのは、見立てである。

そして、こうした見立てというのは、見立てそのものがひとつの市場を形成している場合と、個々人が勝手に見立てそのものを発見していく場合との2種類がある。

狭義の意味での、「観光地」というのは、前者である。

すでに観光という見立てそのものが商品化したところである。

だから、おなじ首都圏でも、銀座や、渋谷や、東京ディズニーランドや、横浜中華街をテレビ番組でとりあげても、件のひとは「うちの地元じゃないか・・・」とは思わないだろう。

観光地として確立しているからである。

ブラタモリや16号線の話というのは、観光地として確立していない場所に、ある意味で「観光」の見立てを提示しているわけである。後者、というわけですね。

日常を過ごしているところを「はじめて歩く知らない場所」として観察する。歩く。発見する。

ま、これは遊びでもあるんだけど、この遊びに乗る人と、乗らない人がいる。

いまは、乗る人がずいぶん増えたけど、乗らない、って人もいる。

つまり、そういうことです。

乗らない人を、乗せちゃう。ここが屁理屈の見せ所である

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