書評されたかった

文学賞受賞したいなと思ってた時期があって、
いや今もうっすらそう思っているんだけど。

「なんで賞が欲しいの?」と自分に聞いてみると、
書評されたい、もっと詳しく言うなら、自分に向けての書評が読みたいが原点だった。

入口は、ジャンプ、アフタヌーン四季賞といった漫画の受賞ページ。
大賞になった作品は熱気を込めて「最高!もっとこの人の作品を読みたい!」とベテラン漫画家さんや編集者さんから褒められ、佳作や候補作は、「画力は高いが、ストーリーの構成が・・・」とか「ストーリーはいいが演出をもっと勉強しよう」などと書かれる。
なんてストレートに評価されるんだろう。
今でもたまに読んではワクワクする。

文学賞で印象的なのは、山本文緒さんが第124回直木賞を受賞したとき。
田辺聖子さんが
<投じた票が開かれるや否や、たちまちほとんど満票を集めてしまったのは快作『プラナリア』(山本文緒氏)である。 天衣無縫というか、天馬、空を行く、というか/山本文緒さんの作品はそれに似ている。>
と選評が書かれていた。

私は文緒さんの作品が大好きで、プラナリアも10回以上読んでる。
選評を読んだのは、受賞してずっとあとだったけど、田辺聖子さんの選評に大きく頷いたのと同時に、「あ~私もこんなこと言われてみたい」と思ったものだ。(なんの努力もしてないのにね)

書評されたい、というよりも、
なんかストレートで熱気がこもった褒め言葉がただただ欲しいっていう甘えた気持ちだったのかなと今は思ってる。
書評で褒め言葉だけをもらうことを狙うなんて、難しいことだ。

「褒められたい」「見てほしい」って気持ちは生まれてしまうものだから、持っててもいい。
ただ、「ほめられたい」と「創作したい」はバランスよく分けて考えたい。
混ぜてごっちゃにして、楽しくなくなっていた。

感情は受け入れつつ、切り離す。

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