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中国人コミュニティと長崎など

長崎その3止。江戸初期には長崎に中国人がかなり住んでいた。福建省の出身が多かったらしい。そして幕末には、今の新地中華街のあたりに火災によって居留地から焼け出された中国人が集まり、チャイナタウンが形成された。その後、戦争中には長崎市内に少なくとも800人以上とされる中国人徴用工が連れてこられ造船所などで働かされた。もちろん端島(軍艦島)などの炭鉱にも中国・朝鮮からの徴用工はいた。市内で被曝した人もたくさんいただろう。補償はされていない。ともかく、つまり長崎の中国人コミュニティには江戸初期以来約400年の歴史がある。横浜にも大きな中華街があるけれど、その歴史はせいぜい幕末以来。そもそも横浜は開国以前は寒村に過ぎなかった。
 新地中華街に近い崇福寺と孔子廟を訪ねた。寺の創建は1629年。宝殿と門は国宝である。面白かったのは境内でお守りなどを売る小さな店の番をしていたおばあさん、二代前が福建省から渡来したという79歳の柳(ヤン)さん。崇福寺の福は、福建省の福からとられたという。中国人コミュニティも少子高齢化が進み、店番や掃除など寺を維持する檀家も減り、店番の順番も最近はすぐ回ってくると話した。苦労をして中学校を卒業するとすぐ働きに出た。長崎大学の近くで長くちゃんぽん麺のお店を開いていたけれど身体がいうことをきかなくなって店仕舞いしたという。子どもは巣立ち、孫は大阪で弁護士をしていると自慢話をひとくさり聞かされた。
 福山雅治がNHK大河ドラマ『龍馬伝』に主演していた時、寺でロケがあり、「朝から夕までそこの(国宝の)門の脇に座って出番を待ってたよ。ファンがたくさんそりゃ大騒ぎだったよ」と話した。今は一人暮らしで東京に住む子は一緒に暮らそうと誘うが、「ここが気楽でいいよ」という。
 寺近くの孔子廟は1893年に清国と在長崎華僑の協力で建立された。日清戦争の1年前である。まったく長崎は戦争を引きずっている。門をくぐると孔子のお弟子さん七十二賢人の等身大の石像が林立する石床の広間がある。初めて見たが、素早く仮面をつけ代える伝統芸能「変面」のイベントがあった。10代の男の子一人が広間を縦横無尽に舞った。若者の伝統衣装の極彩色が、石床と賢人像の白の中でよく映えた。長崎というとオランダ、キリシタン、教会群と反射的に連想するが、実は中華街といい崇福寺、孔子廟といい、また今もここで暮らす中国人たちのコミュニティといい、中国との長い交流史があるのだ。
 最後に富三郎さんの話。幕末に長崎で商売をしていた欧米商人の話はよく知られているが、今回、グラバーの息子さん富三郎について聞いた。母親は日本人。邸の庭から湾をはさみ正面に三菱の造船所があり、戦時中は英米のスパイではないかと疑われた。原爆投下の後、戦争に敗けたら今度はきっと進駐軍から日本のスパイと疑われると懸念し、結局、玉音放送から10日後の8月26日、この邸で自殺したのだという。瀟洒な邸の素晴らしさを見るにつけ、こんな話もあったのだなあとこれまた戦争の影を感じた。
 23日に西九州新幹線が開通するというので長崎駅前は今、大規模な改修工事が進む。まちは変わり、キリシタンも戦争も原爆も遠くなる。けれど有名な観光地をほんの少しでもほじくると、戦争は今でもぬうと顔を出すのだと思い知った。

1Mie Asakura


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