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生きることと図書館

長崎に行ってきました。長崎は高校2年時の修学旅行以来。浦上天主堂から少し歩いた丘の上に「如己堂(にょこどう)」という史跡があり、有名な話なのだろうと思うが、例によって私はこの話を知らずに行ったので、その歴史にとても驚いた。

 永井隆さんという長崎医科大学(当時)の医師・研究者がいた。1945年当時は30代半ばの働き盛り。8月8日から9日が宿直だったので、8日朝、研究室に出勤すべく妻に見送られ家を出た。先生は放射線医学の研究者で、長年の仕事の影響で被曝しており、「自分は長生きができないだろう」と妻に話していた。妻は冷静にしっかりとその話を聞いている様子だったのでうれしかった、と後に先生は回想した。で、その日、少し歩いて弁当を忘れたことに気付いて家に引き返すと、妻が玄関に突っ伏して泣いているのを見たという。これが妻を見た最後だった。

 その後、宿直明けの9日午前11時2分の原爆投下後は被曝した学生らの措置などに忙殺されていたが、3日たって家に帰った。この間連絡がなかったので、もう妻は駄目だろうと覚悟していた。帰ると一面の焼け野原。「私はすぐに見つけた。台所の後に黒い塊を。それは焼け尽くした後に残った骨盤と腰椎であった。そばに十字架の付いたロザリオの鎖が残っていた」と先生は書いた。これが歌い継がれた『長崎の鐘』の歌詞になる。

 さて、「如己堂」である。木造平屋建て、広さはなんと二畳きりだ。「家も妻も財産も職業も健康も失って、ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、我が身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった」「寝たきりの私と幼い二人の子とが、ひっそりと暮らすにふさわしい小屋である」と先生は書いた。子どもたちは直前に疎開させていたために難を逃れた。

 当たり前だが、長崎は何もかも焼けた。本などない。そこで永井先生はこどもたちのために小さな図書館「うちらの本箱」を「如己堂」の横に作った。自身は寝たきりの身で19冊もの本を書き、国内外で反響を呼んだ。寄付金、寄贈本が集まった。1948年にはヘレン・ケラーも先生を訪ねてきた。1950年、佐世保出身の在ブラジル邦人M氏が長崎を訪れ「うちらの本箱」を見た。これが契機となり図書館建設のための寄付金がブラジルの日本人社会から集まった。先生は1951年に43歳で死去。「うちらの本箱」は翌1952年に市立図書館になったという。

 今の図書館は2000年に改築された鉄筋2階建て建物の2階部分。1階は先生の足跡を紹介する記念館と事務室があり、脇の階段を上がると、絵本や童話を中心に蔵書約9,500点のこじんまりしたいい感じの図書室があった。

 如己とは如己愛人、自分を愛するように人を愛しなさいというマルコ伝(12:30)からとられた。図書館の職員の方と立ち話をした。「先生のご家族はどなたかご存命なのですか」と聞いた。その女性は「あら、気づかれませんでしたか。一階の事務室でお仕事をされていた男性。あの方が先生のお孫さんです」と話された。帰りしなにちらと事務室をのぞくと、実直そうな、やせ型で白髪混じりの眼鏡をかけた男性が、机に向かっておられた。私はなにやら、ぐっときた。図書館てのはいったい、なんなんだろうな。

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