「あなたは向こう側の人間だ」
ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』(黒田寿郎/奴田原睦明訳、河出文庫、2023年<初出1978年>)
もうめっちゃ長い。
カナファーニーは一時期、PFLPのスポークスマンを務め、1972年、乗っていた車に仕掛けられた爆弾が爆発し36歳で死亡した作家。パレスチナ人の書いた物語を遅まきながら初めて読んだ。
パレスチナ人のサイードとソフィアは1947年初めに結婚し、地中海に面したハイファの一軒の家を買った。その年の暮れに男の子が生まれた。1948年4月21日、ユダヤ兵が突如、ハイファのパレスチナ住民への攻撃を始めた。治安を担当しているはずの英軍は任務をサボタージュするどころか、ユダヤ兵と共謀した。別々の場所にいた二人は、家に残した生後5カ月の男児ハルドゥンを救おうと家に戻ろうとしたが海岸へと追い立てるユダヤと英軍兵士、砲声、銃声、爆発音に脅える群衆のパニックに巻き込まれ、押し流され、子どもを救うことができず、英軍の小船に押し込められ、北側の諸都市アッカの海岸に放り出された。
二人の脳裏からハルドゥンが離れることはなかったが、その月にパレスチナは独立を宣言し、政府はパレスチナ人に占領地域への立ち入りを禁止した。
その20年後。1968年に、二人は今住んでいるラーマッラーから小さな自動車でハイファに向かう。昔住んでいた家を訪ねる。その家のドアをたたくと、ユダヤ人の女性が現れた。「彼女の話す英語は… … ドイツ語のようだった」。
その女性ミリアムは父親をアウシュヴィッツで亡くしていた。8年前(1940年)、彼女が住んでいたワルシャワのアパートを、夫の留守中にドイツ兵が急襲した。彼女は階上の知人の家に避難し無事だった。だが10歳の弟が、父が強制収容所に送られ一人ぼっちになったと告げに来てドイツ兵に見つかり、逃げる途中で射殺されるのを物陰から見た。
サイードは「もちろん、私たちはあなたにここから出て行きなさいといいにきたのではありません。そうするには戦争しなければならないでしょう」と断り、「あなたはどこからおいでになったのですか」と聞いた。「ポーランドからです」と女性は答えた。「いつ?」「1948年に」「正確には、いつ?」「1948年の3月の初め」
ミリアムは夫のアフラートとともに1947年11月、ワルシャワを出発、「イタリアの波止場のはずれの家に住んでいた」が、ミラノ港からユダヤ機関の保護のもとに翌年3月、ハイファに着いた。
4月29日、アフラートが街のユダヤ機関の事務所に行くと、サイードたちが住んでいた家を紹介された。ただしそこには衰弱した赤ん坊がいる。「その子供を養子にすることを承諾すれば、一軒家を特別に提供する」という申し出を受けた。ユダヤ人夫妻がその家に初めて入ったのは4月30日、赤ん坊を「ドウフ」と名付けた。
20歳になったドウフは間もなく帰ってくるというミリアムは話す。「これまでの20年間、私は心穏やかではありませんでした。今こそすっかり決着をつけましょう。あなたは彼の父親であり、同時に私たちの息子でもあるのです。しかし私たちは、彼自身に選ばせるべきでしょう」
ドウフが帰宅し、ミリアムは「お前にご両親を紹介するわ。お前の元のご両親を」と話した。
「私は、あなた以外に母を知りません。父は5年前にシナイ半島で死にました。その二人以外に両親はありません」とドウフは答えた。
軍服を着たドウフにサイードは「あなたは兵役についているのですか。誰と闘っているのですか。何のために?」と聞いた。青年はいきなり立ち上がり「あなたにはそんなことを聞く権利はありません。あなたは向こう側の人間だ」と答えた。
「私の両親がアラブ人だと知った時から、私は常に心に問いかけています。父であり母であったら、どうして生後5カ月の子供を捨てて逃げられるのだろうと」「あなたがたはハイファを去るべきでなかった。もしそれができなかったのなら、いかなる代金を支払おうとも、乳飲み子を置き去りにすべきではなかった。そしてもし、それも不可能であったというなら、おめおめとハイファへ帰ってくるべきではなかった。あなたはそれもまた不可能だったというのですか。20年が過ぎたのですよ。20年が。その間、あなたの息子を取り戻すために何をしたのですか。」
ソフィアが聞いた。「彼は何を聞いたの?」
「何にも。ああ、そうだ」とサイードは答えた。「彼は私たちが卑怯者だと言った」
「私たちが卑怯者だから、彼がこうなったというの?」とソフィアはさらに聞いた。
サイードはドウフに「私の妻は、我々が卑怯者であったから、アナタが現在あることへの権利を与えることになるのか、と尋ねているのです」と話した。
黙り込むドウフを見ながらサイードは「祖国というのはなんだかわかるかい」とソフィアに聞き、自ら答えた。「祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはならないところのことなのだよ」
1948年に迫害、追放された後、実際には1968年であっても、パレスチナ人が元の居住地に帰還することは公式には認められていないらしい。その点でこの話はフィクションだ。
サイードがいうように、このような悲劇が起こってはならないところが祖国だというなら、実際に悲劇が起こってしまった彼らには祖国はない。欧州から迫害され排除されたユダヤ人がパレスチナの土地に執着することへの不条理が背景にあるのだろう。
しかしではそもそもなぜ、2000年前にはパレスチナに住んでいたというユダヤ人は欧州に追い出されることになったのか。その大きな原因は、どうも帝政ローマとの戦争らしい。つまりユダヤ人がパレスチナから追い出された原因も、ユダヤ人が2000年後に今度は欧州から追い出された原因も、ヨーロッパ人によるところが大きい。
パレスチナ人にとってはいい迷惑だ。20世紀の初めから少しずつエルサレムとその周辺に移住し始めたユダヤ人を、パレスチナ人は当初、融和的態度で迎えたという。しかし欧州からの膨大なユダヤ移民の流入がパレスチナ人の祖国の喪失に結び付いてしまった。
ハルドゥンを失ったあと、サイード夫妻には男の子、ハーリドが生まれ、フェダイーン(アラブ義勇軍)に入隊しようとしてサイードに止められたという。イスラエルの守備軍にいるというドウフと、それでもフェダイーンに入隊するかもしれないハーリドは近い将来、殺し合うかもしれない。そしてその殺し合いの大義はどちらにとっても、「祖国」の防衛なのだろう。まことに、救いがない。5カ月のハルドゥンを置き去りにせざるを得なかったのは、「卑怯者」のサイードとソフィアのせいなのか。それとも彼らをハイファから追い出したユダヤ兵と英軍のせいなのか。
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