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『闇の奥』とガザ地区

スヴェン・リンドクヴィスト『「すべての野蛮人を根絶やしにせよ」<闇の奥>とヨーロッパの大量虐殺』(ヘレンハルメ美穂訳、青土社、2023年)を読む。

 またしてもめっちゃ長い。

 昔、学生の頃、ロシア文学に入れ込んでいた私は、「歴史のない米国に文学などない」、というさる先生のカッコいい暴言にシビレていた。特に米文学は十指に余るくらいしか読んでいない。この暴言を英語で書かれた小説を敬遠する言い訳にしていたのである。

 最近、中南米文学の古典が文庫になったというのがニュースになった(!)こともあり、そこでさすがにこれはちとまずいかなと思い立ち、まずフォークナー『八月の光』を読み始めた。しかしとっつきが悪い。ミシシッピ州の人種差別や貧困、宗教的呪縛、暴力などが満載の長編で、酷暑の夏にはちと重たい。そこで次に読み始めたのが、英国の作家コンラッド『闇の奥』(1902年)。なぜコンラッドかというと、米国文学とは関係ないが、ひょんなことからこの作家が帝政ロシア領西ウクライナ生まれのポーランド人であることを知ったからである。となると、話はイスラエルにつながる。ロシア人のユダヤ人いじめは有名だ。フメルニツキーやバンドゥーラなどのウクライナ人の英雄たちがユダヤ人をいじめたのも有名だ。ではポーランド人はユダヤ人をいじめたのだろうか。もちろんいじめた。

 ポーランドを占領したドイツがユダヤ人をいじめたことを知らぬ者はない。戦後、ポーランドは旧ソ連の影響圏下に組み込まれた。欧州でユダヤ人がたくさんいたのは、ポーランドとウクライナ(当時は帝政ロシア領内)などの東欧地域だ。畏友・広瀬佳一氏の訳により日本語で読めるスタニスワフ・ミコワイチク『奪われた祖国ポーランド : ミコワイチク回顧録』(広瀬佳一・ 渡辺克義訳, 中央公論新社, 2001年)などで明らかだが、戦後ポーランドの政治家の多くは「私たちはドイツとソ連にいじめられたかわいそうな被害者なのです」といわんばかりのトーンが強い。しかしポーランド人の多くもユダヤ人をいじめていた。例えば1941年7月、ドイツ占領下のポーランドの田舎で起こった「イェドバブネ事件」は有名だ。

 前置きが長くなった。いいたいことは、ウクライナ生まれのポーランド人たるコンラッドが、『闇の奥』を書くにあたって、故郷のポグロム(ユダヤ人へのリンチ・迫害)を念頭に置かなかったなんてことがあるだろうか、という疑問が私にはあった。だから俄然、この小説への関心が深まった。文庫本で248㌻と短いし。

 で、読んでいる最中なのだが、この小説のバックグラウンドを知ろうと思って、いわば参考書として読んでいるのが表題の資料。

 この本によると、「すべての野蛮人を根絶やしにせよ」という言葉は、たとえば19世紀の哲学者・社会学者スペンサーにもみられる。またほぼ同じころのドイツの哲学者フォン・ハルトマンにも「犬の尻尾を切断するとき、1インチずつ徐々に切っても犬のためにならない。それと同様、蛮人が絶滅の危機にあるときに、その断末魔の苦しみを人工的に引き延ばすのも、やはり人道的とはいえない」なる文章があるそうで、コンラッドはこれを英訳で読んでいる。そして著者のリンドクヴィストは「スペンサーもハルトマンもとりたてて非人道的だったわけではない。当時のヨーロッパが非人道的だったのだ」と書き、やっと根本的テーマが示される:「ナチスによるユダヤ人虐殺は、他に類を見ない特殊な出来事だったのか、否か?」

 よく言われるように、ナチスはソ連の富農撲滅運動や粛清をコピーしたのではない。トルコ人によるアルメニア人虐殺やらポルポトのキリングフィールドなどの例は世界中にあり、ユダヤ人虐殺と比較対照し「ちらりとではあるが」言及されてきた。けれど、アフリカで起きた英国やフランス、ドイツによるジェノサイドについては「だれ一人言及していない」(p.25)。なぜか。

 「ヒトラーの少年時代、ヨーロッパ人が持っていた人間観の主な要素の一つは、“劣った人種”は自然の法則によって絶滅を運命づけられている、という信念だった。優れた人種はその絶滅を推し進めるべきだ、それが真の慈悲である、と考えられていた」(ibid.)。「劣った人種」はいくら殺されようがヨーロッパ人にとってはどうってことはない。そういう時代だった、と著者は言いたいのだ。

 ではヒトラーはだれから学んだのか。「彼の模範となったのは、イギリスなど西欧の民族だった。ユダヤ人虐殺はその“歪んだコピー”なのだ。」(ibid.)

 というわけで、ガザ地区に対する無差別攻撃を考える。もしもユダヤ人たちが、やられたらやりかえすという復讐をしているのだとしたら、連鎖はいつか止まるのかもしれない。しかしもしも、「“劣った人種”は自然の法則によって絶滅を運命づけられている」のだから「優れた人種はその絶滅を推し進めるべきだ」との信念を持つのなら、つまりはヒトラーが西欧を模範としたように、イスラエル政府がヒトラーを模範としているなら、連合軍がヒトラーの息の根を止めたように、だれかがイスラエルの強硬派を排除しない限り、暴力は止まらないだろうなと、ちらと考えた。考えたというか、悪魔の尻尾を垣間見た気がした。

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 『闇の奥』は船乗りをしていた時のコンラッドの体験に基づくとされる。「コンゴ自由国」(当時はベルギーのレオポルト2世の私有地!)で採取される象牙を収奪するために、コンゴ川を大西洋から溯って奥地へと、つまりは「闇の奥」へと遡上する船の話だ。そのジャングルの奥地に現地人を酷使しまくるクルツという名前の責任者がいる。文明から隔絶された土地で、秘密の王国の王のような暮らしをしている。そこで西欧人が原住民に何をしたか。なぜそんなことができたのかという告発色は薄く、淡々と見聞の写実に徹している印象だ。コッポラがこれを読んで『地獄の黙示録』をつくったというのもこの度初めて知りました。

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