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エンタメの皮を被った超高尚ブレヒト的映画『ヴィレッジ』観てきた❣

東京都シチリア区在住、意識低い系VTuberの夜御牧(やみまき)れるです こんばんは。

付き合いで『ヴィレッジ』なる映画を観てきたのですが、これがまたサブカル演劇好きにめっちゃ刺さりそうなブレヒト的映画でたいへん楽しい(funではなくinterestingって意味で)時間を過ごせました。

不条理演劇だなんだとタイトルを付けてみても、結局アドバンスドな文化人ムラで閉じた知的遊戯として消費されてしまうとその影響力は広がっていかないわけで。小難しいところを尖らせずエンタメで塗りたくって一般向けに売り込んでしまうという心意気は実に素晴らしいですね❣

が、正直なところ本作、役者のファンなどでもないかぎり一般受けは難しいかな……と思います。題名通り辛気くさいムラ社会が主題の話で、スカッとする要素など微塵もないので。なろう系みたいに逆転できるわけでもなければ『鬼滅』『ワンピ』みたいに身を挺して身内を守るわけでもない。あとイケオジ・イケメンは出てくるけど女子はそこそこのお年のヒロインぐらいしか出てこない。
誘ってくれた人も「適当に選んだ映画だったのでつまらなくさせたかと思った」と言ってましたが、きっと誘った本人はつまらなかったのでしょう

ヤミマキさんも最初あまり期待していなかったのですが、あっこれ多分ブレヒトっぽいなーと感じたところから引き込まれてしまい、生まれて初めて映画のパンフレットまで買ってしまいました。(そもそもあまり映画館に行かないのですが)

舞台は地方社会だが、主題は地方ではない

パンフレットよると藤井道人監督「『ヴィレッジ』は村というものを批判したいわけではなく、日本のあるコミュニティがそのまま日本社会の縮図になっていて、その問題提起をしたいという河村さんの想いでできあがっています」と。

地方のムラ社会が舞台ですが、地方について描きたかったわけではない。というか、都市のムラ社会について問題提起する際にむしろ地方を舞台にしたほうが都合がいいことがある

これだけ書くと箇条書きマジックのようになってしまうのですが、本作で各登場人物が置かれているのは下記のような状況です。

  • 本人にはどうしようもない、生まれる前から続いているような因習がある。

  • 本人も完全にクリーンというわけではなく、スネに傷がある。

  • 臭いものには蓋をする以外の解決策が見当たらない。

地方でなくても、親戚や同僚が行っているグレーなことを見て見ぬふりしたりと大なり小なり個人では改善できそうにない因習に思い当たりのある方も少なくないかと思います。

さて、観客が日々直面して(そして、見て見ぬふりをして)いるような事柄を扱うのに、その観客が日々触れているような舞台設定を選ぶのはかえって不都合な場合があるんですよ。
なぜかといえば、そういうものはドラマにされてもやっぱり見て見ぬふりをしたくなるものだからです。

なので、できるだけ客観的に考えさせるために、古来中国では寓話、聖書でもたとえ話と、現前する問題を直接それと扱わずに比喩的な作り話がされてきたわけです。
現代演劇理論でも、そこらかしこで起きているようなシチュエーションを表現しつつも観客が安直に感情移入できないよう観客から引きはがす演出にしなさいと言った人がいて、それがブレヒトの異化効果です。

なお、本作のプロデューサーであった故・河村光庸氏は学生運動経験者だそうですが、ブレヒトは左派も左派、本気で演劇による社会変革を目指しそのための演劇理論を確立した現代演劇の大家です。もっとも、ブレヒトの演劇理論はとても斬新なものだったので政治性など関係なく今日の劇作に影響を及ぼしているそうですが。

藤井監督はというとノンポリ(死語)で、社会派というわけでもなかったそうで、河村Pとの出会いは「藤井くんみたいに政治に興味のない人間がやるべきなんだ」という熱烈なオルグ活動(死語)ラブコールだったそうな。映画学科を出られている映画監督ですので、もちろん演劇史の基礎教養としてブレヒトはご存じでしょう。

(というか、河村Pってあのエリマキトカゲブームの立役者だったんですか❣ ヤミマキさんも現代史としてしか知りませんが、浅田彰『逃走論』と結び付けられて当時のサブカルさんいやニューアカ(死語)さんだったっけか?がうるさかったという、あの❣)

パンフによれば河村Pからは当初「ゴミ処理場を爆破したい」という注文もあったそうですが、藤井監督は実現していません。監督はゴミ処理場を終始舞台装置以上の扱いにはしていないように思われます。レンズの中心にあるのは、常に人間社会。

河村P・藤井監督の旧作『新聞記者』は、といってもこの目で見てないのでネットの感想文をざっと見ての又聞きということになってしまうのですが、どうも時代錯誤な演出も目立ったようです。河村Pもお年でしたし、若くて余計な色の付いていない藤井監督に、エッセンス(本質)を受け継ぎながらもエンタメとしても完成度の高い作品を作って欲しかったのかなと思います。

藤井監督は東京出身ながらこれまでもあえて地方を舞台に選んでいたとのことですが、ドイツ人のブレヒトがバーチャル中国などを舞台にしていたようなもので、都市部の観客を扱いたいがために地方にしているのではないかな。

お能ってどんなジャンルかご存じ?

この作品、喜多流能楽師の塩津圭介氏が出演・監修していて、お能の演目や能面が印象的に映されています。では、お能ってどんなジャンルかご存じでしょうか?

劇中でヒロインが「お能は(主人公が)感じとったように解釈すればいいの」みたいなことを言ってたから、考えるな感じろっていうジャンルなんだろうなあ❣

(歴史的には)上のは半分間違いですよ。お能というのはフリーハンドの自由な解釈が許される禅問答みたいなジャンルではないです。

パンフレットで映画評論家・松崎建夫氏もお能についてちらっと触れています。

能面の角度は、上に向ければ高揚、下を向けば陰りを導く。

上記のように、お能というのは役者のしぐさ一つ一つに体系づけられた意味(型)があって、そのコードを読み取ることができないとどういう場面で何が表現されているのか詳しく分かりません。

お能っていうのは教養あるおハイソ(死語)な方々向けのジャンルだったんですよ。だからたとえば能面を下に傾けたら「ああ落ち込んでるのかな」等と理解できて当たり前だったんです。古くは、そういうことが解釈できないと「えっお前こんなのも分からないの?」と呆れられるような基礎科目だったわけ。

もっとも、お能の観客にはそういう前提知識があって当然、というのはあくまで歴史上のことです。
わたし実は学生時代、本作に参加されている塩津圭介氏を直接目にしたことがあるのですが、若い人にも観に来てもらいたいと親しみやすいお能になるよう心を砕かれていました。(それでも難解でしたが。。)

能面と余白

この作品、お能だけではなく歌舞伎役者の中村獅童氏も出ているのですが(ちなみに本作では数少ない作中でダーティな部分が描かれないイケオジ
刑事役です)、歌舞伎でなくてお能じゃないといけない理由が歴史の長さのほかにもう一つあります。

(古くは)庶民向けだった歌舞伎と違って、お能は教養ある上流階級向けの芸能として続いてきました。前章の繰り返しになりますが、お能は歌舞伎より難解……もとい受け手に委ねられる部分が多いのです。

本作監修の能楽師・塩津圭介氏に従えば「能面をつけたシテを見た時、ある人にとっては微笑んでいるように、また別のある人には泣いているように見えることがある。そこに答えを出さないのが能のあり方である」(キティちゃんみたいですね❣)とパンフレットにある。

作中の能モチーフはシニフィエなきシニフィアンであって、作り手から分かりやすく固定されたメッセージが与えられているわけではないのです。その解釈は観客に出された宿題になっている。

作中ヒロインは「子どものころは能面顔が怖かった」「能面を見ると落ち着く」と言っていたかと思いますが、少なくともお能に慣れていない多くの観客にとっては前者のほうが近く、能モチーフが挟まれるたびに作品への没入を阻まれるのではないかと思います。

さて、なんで作品への没入を阻む必要があるのかというのは、始めのほうにも書いたのですけど、社会問題を扱ったところで冷静に客観的に省みられることがなければ現実での実直なアクションにはつながらず片手落ちだからです。でしょう。……ですよね?

これはまだ書いていなかったのですが、現実に存在する問題について、劇中とはいえ何かヒーローが出てきてぱっと解決してしまうようなスカッとする展開もブレヒトは良しとはしませんでした。
そういうのは不俱戴天の仇であるナチス宣伝省がやっていたから、ではなくて、劇中で地に足の付いていない空想的な解決策を出したところで、観客がフィクションでスカッとして終わりなら単なる精神的勝利法。現実に存在する問題は解決に向かうどころかかえってそのための作品がガス抜きとして機能し、現前する問題の改善そのものは先伸ばしにされる危険性さえあるのです。
今まで棚上げにされてきた問題が地道な取り組みなしにそうそう簡単に解消するはずもないので。
要するに劇的演劇は民衆の阿片(鎮痛剤)であるということです。怖いですねえ、恐ろしいですねえ(平成レトロ構文)。

少なくとも本作では藤井監督はたとえば「頭の中でキャラクターが勝手にキャラが動いてそれをそのまま描くような神がかり的な創作」のようなことは良しとはしていなかったよう。それはパンフの「役に入り込みすぎないでほしい」「物語を紡ぐって滅茶苦茶緻密な技術が必要なものなのに、感情頼りになってしまうとハレーションが起きてしまう」という言葉からうかがえます。

これまたパンフレットのインタビューでは藤井監督「観終わってからわからないことがあっても、わかることがすべてではないと伝えたいし、人や物事を断定してわかったような気になっていることが一番怖い」とのことですが。
荒唐無稽な絵空事ではない「現前する問題」を扱いつつ、なおかつ作品やその登場人物を「わかることがすべてではない」と享受させるのはかなり難しい。

またブレヒトについていうと、これは本作とは無関係なんですが、昨年頭に元SMAPの草なぎ剛主演で『アルトゥロ・ウイの興隆』が上演されたのです。しかし、ブレヒト原作でその理論に従って演出されていたにもかかわらず、その舞台では異化効果は十分には得られなかったようです。

(演出家の)白井も初演で客席に熱狂が生じ過ぎたことについて「達成感もありつつ、「失敗したかも」という感覚も持っているんですよ、実は」と語っており、客席への煽りや客席降りを封じられた状況を利用して、観客がより状況を冷静に、客観視できる仕組みを作りたいとしていた 。

松本俊樹「草彅剛主演『アルトゥロ・ウイの興隆』は、良質な「ファシズム体験」プログラムかもしれない」、現代ビジネス、2022年1月19日、2023年5月4日閲覧

『アルトゥロ・ウイの興隆』を知ってか知らずか、『ヴィレッジ』は周到に観客の作中人物への同化を妨げるような演出がされているように感じます。登場人物の設定も都市部の一般市民の平均値からはだいぶかけ離れたものになっている……はずです。複雑な家庭に育ち、猫背で死んだ目をしながら半グレめいた幼馴染に反抗的な態度を取る怖いもの知らずのイケメン主人公とか。では陰キャなら主人公に完全にシンクロできてしまうかというとそうでもなく、昔は人前に立つことも多かったようで、幼馴染の女子に持ち上げられて村の顔に抜てきされたり。そしてちょくちょく挟まれる無機質な能面と。

村サーの姫みたいなヒロイン

旧態依然とした地方のムラ社会が舞台なので、登場人物は当然のように男子ばかりです。メインでというか、画面に映る(それなりに若い)女性がヒロインしかいない。

ちなみにヒロイン役の黒木華氏は御年33歳とのことですが、映画って封切り日どの程度コントロールできるものなのか存じ上げませんが、監督サイドの采配だとするとこれも絶妙ですね。日本人ならご存じだと思いますが、33って観音菩薩の縁数なので(日本人なら数え年だろうが小娘が、と言われるかもしれないけど)。観音菩薩ってアレですよ、三十三の化身に変じて現世の衆生を救うっていう。

どうでもいいことですが、主人公役の横浜流星氏は26歳だそうです。劇中では主人公とヒロインは同い年くらいの設定のようだったけど。率直に言ってイケメンとカウンセリング恋愛(死語か?)する村サーの姫って印象でした。(とはいえ彼女も酷い目に遭う)

が、ヒロインの設定も地方ムラ社会にしてはよくよく考えるとおかしなところがある。(劇中で描かれたシーンをストレートに読み取ると)東京で夢破れて満身創痍になって地元に戻ってきたら、村の職場ですぐにPRプロジェクトに抜てきされて発言権を得、主人公の立場を引き上げるというチートいや菩薩っぷり。追放もののなろう小説かよ。

(少なくとも作中では)地元の職場で発言権を得る前に何か苦労したという話は出てこない。実際に旧態依然とした男社会の中で格闘している女性が見たら噴飯ものでしょう。

このヒロインがお能についてよく口にするのですが、お能関係の方には少し申し訳ない気もするけど演出がだいぶ……不思議ちゃんすら通り越してホラー。

藤井監督も旧作『新聞記者』では理不尽な現実と戦う女性記者を主人公にしているので、「監督が男だからリアルな女が描けなかった」というのはちょっと考えがたいのですよ。
あえて荒唐無稽なファンタジーめいた設定も混ぜて安直な感情移入を妨げて客観的に観てもらうねらいがあるのではないかなと思います。

何一つ解決させないラスト

終始陰鬱な雰囲気で進みいつ事件になるだろうかとハラハラしながら見守らさせられるものの、実際にコトが起きるのはわりと時間が経ってからのことになります。そしてラストシーンはてん末が語られることもなく唐突に終わる。

でも、ハリウッドのゾンビ映画あたりと違って別に続編の期待を持たせるためにそういう終わらせ方したとかじゃないと思うよ。

パンフレットによれば藤井監督「すべてを説明するのではなく、余白で語る表現に挑戦してみたい思いがありました。これまで自分がやってきた演出よりもさらにレベルの高いことだったので苦しかったけど、能の力を借りることで、新しい試みができたと思います」とのこと。

またブレヒトを持ち出すわけですが、ブレヒトさんの場合は本気で演劇による社会変革を目標としていたので、観客が上映中だけカタルシスに浸って劇場を出たら「さ終わった終わった一杯飲もうや」じゃ困るわけです。で、ブレヒトさんがどういう演出をしたかというと、あくまで一例ですが、例えばクライマックスの中途半端なところでお芝居をぶった切って「この続きがハッピーエンドになるよう皆様お考え下さい」なんて主演に語らせたりしたわけ。(ブレヒトの演劇も本作みたいな八方塞がりの状況で終わって、ハッピーエンドになんかそう簡単に繋げられるものではありません)

本作では解決策はおろか、主人公とヒロインがその後どうなったかさえ語られません。断崖絶壁で自白させたりもありません。

畢竟、大事なのは(一人でも多く)劇場だけで完結させずに持ち帰らせて(できれば)自分の問題として考えさせることなわけですよ。なので唐突なエンドにしたのだと思うよ。妄想だけどね。

ところで、本作には題材にしている能の演目が2つあって、その一つが「邯鄲」です。これは「一炊の夢」と同じ故事を題材にした演目なのですが……。

でも、劇中で謡われるのは「邯鄲」でも「五十年」のあたりで、しかも印象的な場面ではごうごうと燃える炎が映し出されるので、歴史に明るい人はもう少し別の演目が思い浮かぶことも多いと思うのです。
説明するまでもない気もしますが、「敦盛」ですね。Googleくんに「五十年 能」と聞いても2023年5月4日現在はそちらばかり引っかかるし。織田信長が辞世の句の代わりに舞ったという伝説のアレ。

最後のほうはかなりの急展開でいまいち釈然としないし、パンフレットにも村長役の古田新太氏が「最後に優がアクションを起こせるテンションに持っていくためには、どういう想いで彼と向き合えばいいのか……」と悩んだとあります。これは演出上の限界もあるのかもしれませんが、あえて不自然な部分を残すことでその意図を考えさせるための仕掛けなのかも……という可能性をヤミマキさんは考えざるを得ませんでした。

だって、映画自体は完全なフィクションですが、劇場での「一炊の夢」では作り手としては不完全燃焼なはずなのですよ。邯鄲の枕と違って、本能寺の変は(信長の幸若舞自体はいくらかフィクション交じりのようですが)、実際に起きた事件であり、しかも現代まで重大な影響を及ぼしている。どちらが自分ごととして、先のことまで考えさせる力がありそうかというと……後者、のように思います。


ヤミマキさん実はゼロベースで考えて「脚本の人そこまで考えてると思うよ」と言ってるわけでもなかったりします。 ただのエピゴーネンなのです。
天才🐾文学探偵犬氏(や彼の解釈に従って読むロリータ大先生ナボコフ)によると、歴史に名を残すような大文学者(演劇ではなく小説ですが……)には、字面に従ってストレートに読める表面上の物語とは別に、文中に散りばめられているヒントを丹念に読み解いていかないと分からない真の物語を埋め込む文化があったそうなのです。緯書なんかとは違うぞ。

(天才🐾文学探偵犬氏もこと現代の作品についてはどこまで本気で論じているのか読み取れないところもありますけどネ🐻)

……という話を耳に挟んでいるので、つい深読みしてしまうのでした。


さて、長々と書きましたが、ここまですべてヤミマキさんの妄想です。信じるも信じないものあなた次第です。でも、自分で考えたほうがいいと思うよ。

それでは次週をご期待ください。さよなら、さよなら、さよなら(本歌取り)。


あ、これもどうでもいいんですけど、『ヴィレッジ』みたいな旧態依然とした陰鬱なムラ社会が舞台の乙女ゲームをお探しなら『月影の鎖』っていうのがおすすめですよ。あっちは乙女ゲーなので普通に救いがある。

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