研究における臨床的意義の重要性についての試論

①研究計画段階から臨床的意義を語ることは、臨床現場や当事者に対する傲慢である

②直接誰かの役に立つ研究しか認められなければ、学術は廃れる

③自分の頭で考えて可能性を広げる必要がある

 先月、修士論文の中間発表会が開かれた。修士論文でどんな研究をするかや問題提起をする場である。ある臨床心理学講座の院生の発表は、認知心理学の分野に寄ったものであった。ASDのある人の認知方略と新たな認知方略取得の仕方について、実験的に検証し明らかにするというものだ(身バレ対策&他者の研究を無断で例として挙げているためざっくりと書いている)。その質疑応答の中で、研究室の違う臨床心理学講座の教員がこんな質問をした。「その研究の臨床的意義は何ですか?」

 このあと、発表者は考えられる臨床的意義を挙げて説明し、やりとりを終えたが、この質問には心底怒りを覚えた。なぜなら(直接的ではないにしろ)院生の研究指導を行う立場にある教員が、誰でもできるような思考停止の質問をしているからである。この教員の質問の意図はおそらくこうだろう。臨床心理学の研究なのだから臨床、つまり困っている人(今回の例ではASDのある人)の役に立つような研究でなければいけない、そしてどのように役に立つか研究計画段階で示さなければならないと。

 だが、考えてみたい。そもそも研究とはどのような営みか。一言で言えば、これまで明らかになっている学術的知見に基づいて新たな学術的知見を生み出す作業である。そこには本来臨床的意義は介在しない。新たに生まれた学術的知見をさらに検討したり実践することを通して、臨床現場へ還元されるものである。それを実験室研究の段階で結論付けるのは危険であるし、研究計画段階ならなおさらである。基礎研究(実験室研究)と臨床研究(実践研究)は別問題として考えなければならない。基礎研究の知見を組み合わせながら実践研究の計画を立て、結果を得、考察することを通じて初めて臨床的意義は見いだせるのだ。

 それを基礎研究、しかもその研究計画の段階で、見出そうとする行為は、誰も知らないことを知ったかぶりすることであり、研究者としてそれをすることは許されない。結果に出ていないことをさも結果が出ているように語ること、つまり捏造と同じようなものではないか。1度の研究で人や現場についてわかった気になって、そこで終わってしまうということがあり得ようか。人間はそこまで操作可能な理解しやすい存在なのだろうか。その臨床的意義は本当にプラスに働いているものなのだろうか。

 さらに臨床的意義のある研究だけで成り立つ世界を仮に考えてみよう。いかなる研究結果もすぐに臨床現場に還元されてしまう。そうなるとどうなるか。臨床現場から研究の問題意識が形成されたとしても、他の研究から問題意識が形成されること、他の研究との関連性の強さが薄れてしまうのではないか。臨床的意義を重視するあまり、学術的意義が希薄化し、学術的知見を組み合わせて新たな知見を生み出すといった学術が本来持っていた可能性が失われてしまうだろう。そうすると、そもそも研究という営みが廃れていくことになる。そうなれば、臨床現場では、論理的根拠のない経験知だけがはびこることになる。それは臨床現場にとってもマイナスではないだろうか。

 そしてそもそも、臨床的意義は臨床家が考えるべきものではないか。小説を読むことを想像してほしい。おそらく多くの小説には、作者が伝えたいメッセージが織り込まれている。その小説を読んでいない人が作者に「この小説であなたが伝えたかったことは何ですか?」と質問したとしたら、作者は答えるだろうか。小説を読んでもらうことを通して、著者の想定を超えて想像を膨らませ、何らかの形で生活を豊かにしてほしい、そういう可能性を持つからこそ文学は面白く、研究分野になるほどのものではなかろうか。これは研究全体に当てはまることだが、先行研究から思考に刺激を受け、論文の読者の思考を刺激する、その繰り返しによって何かにプラスに働く。そのようなものではないか。

(最終更新:2021年9月9日)


 

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