見出し画像

これも最後か、と思いながら歩く

今日で今の場所での子の療育が最後だった。
子を預けている間にダイソーで買い物するのも、駅前のドトールで昼食を摂りながらラジオを聴くのも最後なんだなぁとぼんやり思った。
よく散歩に行った広い公園にも最後に行きたかったけど、暑さで断念した。

教室ではささやかにお別れ会をしてくれて、先生方も寂しがってくれた。子は多分今日が最後だとは分かっていないと思うけど。

ぼーっとしていると忘れるけど、意識すれば全てが今日で最後なのだな、と思った。
教室の近くの花壇の花が植え替えられるのを見る事ももう無いし、一軒家の前の真ん丸なフォルムの木彫りのカエルの人形を見る事ももう無い。子の送り迎えの時は坂道を行くけど、預けた後は石段を降りていた。その石段を降りる事も無い。川沿いに降りて鴨が泳いでいるのを眺める事も無い。
誰も居ない団地の公園の木陰で風に吹かれてぼんやりする事も無い。

帰りに、同じ教室のお母さんと同じ電車に乗っていたらしく改札に降りるエレベーターで一緒になり話をした。何と無く最寄り駅が同じなのは知っていたけど、実は結構家も近い事が分かった。
いつもの私ならば駅を出るタイミングくらいで「ちょっと買い物して帰るので」と言って早々に別れたと思うのだけど、これも何かの縁だと思って喋りながら途中まで一緒に帰らせて貰った。
私は全然会話を上手く回せるタイプではないので、もしかして向こうは「この人何処まで一緒に帰るんだろう…」と思ったかもしれない。そうだとしたらこちらのセンチメンタルに付き合わせたようでたいへん申し訳無い。そして挨拶して別れてから、「何か失礼な事を言ってなかっただろうか…」とモヤモヤした。それならば一緒に帰らなければいいのだろうけど。
自己満足だと思うけど、顔を合わせて軽く挨拶を交わすだけでほとんど話した事のなかった人と、そして多分もう話す事のない人と少しでも話が出来た事は良かったなと思う。

ところで川沿いに沢山あるこの石で出来たベンチ(と言っていいのか分からないけど)、ある時気付いたんだけど将棋と碁の盤なんだよね、多分。
コロナ禍でなければひょっとして駒や碁石だけ持って来て対局する近所のご老人を見られたのだろうか。ちょっと見てみたかったなあ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?