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風の強い日

今日は朝から風が強かった。

晴れていたので眠い目を擦りながら洗濯物を干したのだが、さっきからバタバタとそれらが風にはためく音がしている。
今机に向かって描いているのはどちらかと言えば気乗りしない挿絵の仕事で―私のような何とか辛うじて食い繋いでいる者が選り好みしている場合ではないのだけど―ベランダの洗濯物が気になるせいで余計に捗らない。
下絵にしてもペン入れにしても、これだという線が決まらない日がある。今日は特にそういう日だ。気乗りしない仕事ならさっさとやっつけてしまえばいいと思う一方で、それを許さない自分も居る。

ペン先を紙に滑らせようとした正にその時、ベランダから何かが落ちた音がした。
私は自分以外誰も居ないのに苛立ちを載せて大袈裟な溜息を吐いて、ベランダに向かった。
案の定、Tシャツがハンガーに縺れた挙げ句にコンクリートの床に落下していた。拾い上げてみれば、ろくに掃除していない床の汚れがもろに付着している。
洗い直しだ、とうんざりしながら私はそれをハンガーが付いたまま部屋の中に放り込んだ。
変わらず風は強く吹いていて、アパートの前の道路ではカラカラと喧しく音を立てて空き缶が転がっている。長らく剪定されていない庭の木が大きく揺れている。
他の洗濯物も部屋の中に入れてしまおうかと思った時、一際強い風に飛ばされて来た何かが私のジーンズの脚に纏わり付いた。手に取ってみるとそれは白と赤紫の芙蓉の花が紺地に沢山描かれている大判のスカーフだった。
近所の洗濯物が飛ばされて来たのだろう。しかし持ち主が分からない事には届けようも無い。どうしたものかとその手触りの良い薄手の生地に指を滑らせていると、私は突然に思い出した。

違う。私はこのスカーフを、知っている。

これは子供の頃、一緒に住んでいた祖母が持っていたものだ。私が産まれる頃にはもう居なかった祖父が、若い頃祖母に贈ったものらしい。
幼い私は祖母のこのスカーフにえらく惹かれた。私がいいなぁといつも言うもので、祖母はじゃあその内あなたにあげるわね、と言った。その時はそれを自分が貰えるのがどういう時かなど考えもしなかった。
しかしある時祖母は仲良しの友達と出掛けた旅行先でスカーフを失くしてしまった。立ち寄った先や宿泊先に問い合わせたけれど結局見付からず終いだった。あげると約束していた祖母は私に申訳無さそうに謝った。私は、いいよ、本当はそんなにいいと思ってなかったし、とぶっきらぼうに言うしか出来なかった。もっと掛ける言葉が他にあったのに、と今になって思う。

それにしてもそのスカーフが何故今、ここに。
そう思っていると、また何かが強風に飛ばされて来て足元に落ちた。
それは、罫線の入ったノートの切れ端だった。
折り畳まれたそれを広げると、黒鉛が擦れて汚れた紙に女の子の絵が描かれている。
これは、見た瞬間に、思い出した。

―――小学生の頃、姉が描いた絵だ。

描かれているのは当時姉妹揃って大好きだった魔法少女の漫画の主人公だ。紙には何度も消しゴムで消しては描き直した痕がある。
当時、姉も私も絵を描くのが大好きでよく一緒に描いていた。どうしたって3つ上の姉の方が絵は上手だった。でも姉は私に自慢したりいばったりはしなかった。ミチコのも上手よ、といつも言ってくれた。
それなのに私は姉の方が上手なのが悔しくて、ある時姉が引き出しに仕舞っていたこの絵を、こっそり盗んで隠してしまった。姉がいっとう上手に描けたと、大事にしていた絵だ。
隠している内に、私は何処に隠したか分からなくなり失くしてしまった。その内に返そうと思っていたのだが、とうとう言いだせなかった。
姉は私に何も言わなかった。

どうして、こんな昔の物が、今更―――。

立ち尽くしていると、隣室のベランダから声がした。
「今日はそういう日なんだよ。何十年だか百年にいっぺんあるかどうかの、特別な風が吹く日だ」
「特別な風…?」
「そう、特別な風。この世界には数多の失せ物が溜まった吹き溜まりのような場所があって、それは人が生まれては死ぬ限り直ぐに一杯になってしまう。だから時々風が吹いて、返せる物は返すのさ。帰るべき人のところに。そうして一度、吹き溜まりを空にするんだ」
「…帰るべきところ…本当に?これは私のところに帰るべきものだったの?」
「…自分ではそうは思わないかい?」
その問いに、私は黙り込んだ。

だって、私は、大切な物を失くして落ち込んでいたおばあちゃんに優しい言葉ひとつ掛けてあげられなかった。それどころか貰えなくなったことにがっかりしてさえいた。
姉の絵が上手なのを嫉んで、勝手に姉の絵を盗み出した。よりによって姉が一番気に入って大事にしていた絵を。そしてそれを失くしてしまった。

祖母はあれから2年後に亡くなった。失くなったスカーフの代わりに私はアメジストの並んだ金色のブレスレットを形見に貰った。
姉は絵の道には進まず、大学を出て大きな会社に就職してそこで知り合った優しい旦那さんと結婚した。絵の仕事に就いたものの鳴かず飛ばずの私を、いつも一番応援してくれた。
それなのにある時呆気なく、病気で亡くなってしまった。私には秘密にしていたのだ。

「私がこれを持っている資格なんてあるのかな」
私はいつだって周りの人に優しくされて、それなのに自分は優しい言葉ひとつ掛けてあげられない。いつも自分の事ばかり、自分に手一杯で周りを見る余裕も思い遣りも無い。
「資格も何も、風は運ぶだけだ。その物が思いを辿って行き着く。それだけさ」
「思い?」
「そう、君が思うより、ずっと君の周りの人は君を分かっていたよ。だからきっと、そんな風に君が後悔している事も全部、分かっている筈だよ」
「…ねえ、あなたは、誰なの?」
「…人の言葉で喋るのは初めてだもんね、無理は無いね」
緊急時の隔て板越しに聞こえる声には聞き覚えが無かった。しかしまた風が強く吹いたかと思うと、私の手元に何かがふわりと舞い落ちて来た。慌ててそれを掴むと、赤茶と焦げ茶と黒が入り混じったようなふわふわとした毛の塊だった。

「サビ…?」

私は震える声で隣のベランダに問い掛けた。

サビは、子供の頃家で飼っていた猫だ。
毛の色が錆のような色をしていたので、知り合いから子猫を貰って来た父が安直にそう名付けた。
13年、一緒に居た。
ある夜、一番遅くまで起きていた私が風呂から上がると、サビがリビングでカリカリと掃き出し窓を引っ掻いていた。こんな遅い時間に外に出ちゃだめだよ、と私は言ったけど、サビは出せと言って聞かなかった。根負けした私が窓を開けてやると、サビはするりと夜の闇に溶け込んで行った。

それきり、サビは帰って来なかった。

家族は誰も私を責めなかった。
母は、猫は最期を主人に見られたがらないものだと言って私を慰めた。けれど私はずっと、あの時私が窓を開けなければ、と心の何処かで思い続けていた。

「本当の事を言うとね、おかあさんが君に言ったような事ではないんだよ。確かに僕はそれなりに歳だったけど、まだ寿命じゃあなかった。単純にドジを踏んだのさ。…君のせいじゃないよ」

サビが居なくなってしばらく、私達家族はずっと近所を捜し回ったし警察や保健所にも問い合わせた。けれどついぞ、サビは見付からなかった。

「…でも、死んじゃったんでしょう、あの夜に。私は、もしサビに二度と会えなくても、どうか誰かに拾われて可愛がられていて、って…ずっと、そう願ってたよ…」
「…ごめんね、知らない方が良かったのかもしれない、でも君が悪い訳じゃないってどうしても言いたかった。それに僕も君に会いたかったんだよ。それとね、死して言葉を伝えられるのは僕ら動物だけみたい。変だよね。だから代わりに伝えに来たんだ」
「…代わり?」
「おばあちゃんもおねえちゃんも、君のことを大好きだって。ずっと応援してるよ、って」

胸の奥に小さな棘となって刺さり続けていた後悔が、ジワジワと溶けていくのを私は感じていた。そして今度は目が溶けるかと思うほどに涙が止めどなく溢れて来た。
「…じきに風が止む。僕はもう行かなきゃ」
「…待って、サビ、待って」
「ごめんね、もう行かなきゃいけないんだ。…かわいがってくれてありがとう。ずっと、楽しかったよ」
「…私も、楽しかった、大好きだよ、サビ」

チリン、と遠い記憶の中の鈴の音が鳴った気がした。もう長い事空き部屋の隣室のベランダは、また元の通り静かになった。
思わず手元の柔らかなスカーフに顔を埋めると、懐かしい祖母の匂いがした。ノートの切れ端に触れた指先は、姉と手を繋いだ日の感触を思い起こさせた。サビの柔らかな毛に頬が触れて、お日様の匂いに満ちた毛並みに頬ずりした日々を思い出した。

ゴウ、と大きな音がして強い風が吹き、私は目を瞑った。
目を開けた時には、私の涙を吸い込んだスカーフも紙片も毛の塊も、私の手元から消えていた。ただその温もりだけがこの手の平と指先に、確かに残っていた。

ずっと忘れる事は無い、風が強い日の事だった。

End.

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