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弔いの花となり、墓標となり

それは私が八つの時であった。

東京は日に日に戦火に見舞われる事が多くなり、父は招集され、商家を構える我が家もとうとう疎開せざるを得なくなった。
幼い弟妹は母と共に母方の実家へ、そして長兄の私だけが父方の叔母の家に疎開する事となった。
食い扶持が増えるから良い顔をされないのではないかという心配は杞憂であった。叔母の家は山間にあり、農作物は豊富にあった。白米も東京では目にしない程の量の備蓄があった。
父と顔のよく似た叔母は朗らかで私に辛く当たるような事は一度も無かった。歳の近い従兄弟達も私を除け者にする事無く、寧ろ東京の話を聞かせてくれとせがまれた程だった。戦火を免れ平穏な日々ではあったが、やはり私は心の何処かで孤独を感じていた。親兄弟と離れ離れになる不安は八つの子供には大きかった。
恵まれた環境ではあったが、叔母や従兄弟たちが優しくしてくれる程に、嗚呼私はやはり余所者なのだと孤独を強く感じる事もあった。

私は時折一人になりたくて、散歩をしてくると言い置いて近くの山を暫く歩いた。
ある時細い道の二手に分かれる所に辻地蔵があるのを見付けた。格子の中の暗がりを除き込むと、殆ど色の褪せた赤い頭巾と前掛けを着けた小さな地蔵が穏やかな顔で微笑んでいた。地蔵の前にはお供え物と共に鮮やかな紫の紫陽花が空き瓶に生けられていた。
見れば二手に分かれた右の道の脇には同じ色の紫陽花が見事に咲いていて、それらは奥へ誘い混むようにずっと続いて植わっていた。私は思わずその道を奥へと進んだ。
暫く歩くと立派な門構えの屋敷が現われた。こんなところにも家があったのか、と思いながら私はこんもりと咲く紫陽花が一体何処まで続いているのか気になって、更に奥へと歩いた。
やがて紫陽花の花も道も途絶え殆ど鬱蒼とした森になろうかという辺りに屋敷とは別の小さな家屋があった。それを眺めていると、私は何かの気配を感じた。
見ると紫陽花の葉の隙間から、人の目がこちらを覗いていた。私が驚いて悲鳴を上げかけたのを、瞳の主はしい、と慌てて制した。やがて白く細い手が紫陽花の枝を掻き分けて、同じ歳の頃と思われる子供が顔を覗かせた。
「驚かせて悪かった。珍しく人の足音がしたものだから」
手と同じく白い顔と長く伸びた前髪から女かと思ったが、よく見れば男だった。
「…君誰?」
「ああ、僕は、この先の家に疎開しているんだ。東京から来た」
「へえ、東京から。何でわざわざ?」
「何でって、君、知らないのか?」
私が戦争の為に東京がどんな状況かを説明すると、彼は頻りに目を丸くして聞き入っていた。彼は驚く程に何一つ、知らなかった。何故そんなに何も知らないのかと訊いていいものか私が考えていると、まるでそれを察したように彼は言った。
「僕はこの離れから出る事を許されていないんだ。家族とも滅多に話をしない。だから外の事はなんにも分からないんだ」
「…どうして、離れで暮らしているの?」
「僕が病気だから。ああ、安心して、伝染る病ではないから」
成程、死人と紛う程白い肌は病のせいでもあるのか、と私が思っていると、彼は言葉を継ぎ足した。
「それと、僕が妾の子だからさ」
「めかけ…?」
当時の私はその意味を知らなかった。彼はそれ以上は何も言わなかった。

山の上の方にある屋敷を知ってる?と一つ歳上の従兄弟に尋ねると、ああ、紫陽花屋敷か、と答えた。
「あそこの家はここらの山をいくつも持ってる地主なんだと。お高く止まってて村のもんからは嫌われてるって母ちゃんが言ってたけど」
「…子供は居るの?」
「いや、俺らより随分歳上のお嬢さん二人しか居ないって話だけど」
「そう…」

「実は僕も昔、東京に居た事があるんだよ」
紫陽花の垣根越しにか細い声で彼が言って、私は驚いた。
「えっ、じゃあ何故この前言わなかったんだよ」
「ふふ、君が次来てくれた時に話題を取っておこうと思って」
「どの辺に住んでいたの?」
「それは残念ながら知らないんだ。僕が東京に居たのはほんの赤ん坊の時だけらしいからさ」
「…そうか」
「ごめんね、がっかりした?」
「いや、そんな事はないけど…」
「ねえ、また君の話を聞かせてよ」
紫陽花の葉が影を落とす真っ白な顔で綺麗に笑って、彼は言った。

それから何度もこっそりと彼の元を訪れては話をしたが、結局お互いに名乗らず終いだった。次会った時には訊こうと思うのだが、会えば話す事に夢中になって忘れてしまった。
彼は外の事を知らない代わりに、与えられた書物の知識は驚く程豊富だった。学校に通っている私よりも物知りだった。
そうして何時しか紫陽花の花も枯れ、向日葵の盛りもやがて過ぎようかという頃、戦争は終わった。
私が家族の元に帰る日取りも決まり彼に別れを告げようと何度か足を運んだが、彼が繁みの向こうに現れる事はなかった。
病が悪くなったのだろうか、と思い、心配と寂しさを抱えたまま私は汽車に乗り東京へ帰った。

15年振りに訪れる地は、変わらず緑豊かで空気が澄んでいた。
あれから運良く戦地から生き延びて帰った父は商売を再開した。私は将来父の跡を継ぐべく、今は共に働きながら勉強中の身だ。
戦後慌ただしく月日は過ぎ去り、世話になった叔母たちの元を訪れるのも随分遅くなってしまった。
久し振りに再会した従兄弟達と背が伸びたなあ、太ったなあ、などと一頻り盛り上がった後に、私はそっと訊いた。
「なあ、あの紫陽花屋敷は、まだあるのか?」
「ああ、あのお屋敷は…随分前に大家事で焼けちまったよ」
「え…それは何時の話だ?」
「戦後暫くしてから…もう10年は経つかな。夜中の火事だったもんで誰も助からなかったんだ。あそこはこの土地代々の家じゃねえから、遠くから親類がやってきて弔いだけはしっかりしたけど、焼け跡はずっとそのままだ」

久し振りに山道を上がって行くと、変わらずあの辻地蔵があった。奇しくも紫陽花の折で紫の花は見事に咲いているが、地蔵に備えられているのは黄色い菊の花だった。
紫陽花に沿って進むと、確かにあの立派な屋敷は跡形も無かった。長い月日の間に草が繁り蔦が這い、火事で焼けた事さえも分からない程だった。屋敷を取り囲んでいた紫陽花は火事で多少焼けたり枯れたりしたのか分からないが、変わらず豊かに花を付けていた。
奥に歩を進めると、彼と言葉を交わしていた懐かしい場所に辿り着いた。地面に腰を下ろして紫陽花越しに話をしていたが、一度もその中へ足を踏み入れた事は無かった。
子供の目にも、彼の住んでいた離れは屋敷と比べると随分質素だった。大きくなり彼の語った言葉の意味を知った私は、彼の生い立ちの悲しさを思った。
紫陽花の株と株の間を見付けて長い草の茂る敷地へ入ると、そこにもやはり建物の朽ちた痕跡があった。その真ん中辺りに視線を遣った時、私は我が目を疑った。
元は生えていなかったであろう離れの跡に、一株だけ真っ白な紫陽花が咲いていたのだ。
紫陽花とは地下茎で殖える花であっただろうか、と考えたが、周りの紫陽花はみな青味がかった紫色をしている。

まさか。
まさか、と思いながら私は気付けばその白い紫陽花の根本に跪き、服や手が汚れるのも構わず掘り起こし始めた。雑草が細かく根を張った土は硬く、私は辺りを見回して土に埋もれていた陶器の欠片をスコップ代わりに無我夢中で掘った。
やがて陶器の欠片が何かに当たる感触がして、私の心臓は跳ね上がった。更に土を掘り進めると、形を保ってはいないものの、そこに埋まっていたのはやはり人の骨であった。
大部分が土の色に汚れていたが、所々は珊瑚の死骸のように酷く白く、彼の肌の色を思い起こさせた。

―――君は知らせたのか、私に。此処に居る、と。

私は彼の小さな欠片を汚れた手でそっと拾い上げると、思わず胸に掻き抱いた。
―――どうか、許して欲しい。
その生い立ちを知って尚、どうにか幸せになってくれていたらなどと願った楽観を。
こんなにも長いこと訪れなかった事を。
そして今、御し難くこの両目から溢れる身勝手な涙を。

私は掘り起こした土を元に戻すと、彼の小さな欠片を大切にハンカチに包んでシャツのポケットに仕舞った。
紫陽花の道を後にして振り返ると、柔らかく笑む地蔵が私と彼の欠片を見送っていた。
彼を弔ったのはあの地蔵と紫陽花たちだけだったのだ。

共に帰ろう、君が産まれた地に。
―――名も知らぬ友よ。

End.


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