峠の日に。
雨がアスファルトに突き刺さるように降っている。テレビが沖縄に台風が迫っていますと言っていた。
「早く着替えなさい。タクシー呼んだから」
「はあい」
足首のあたりが重かった。昨日のショッピングで溜まった血が、まだ少し残っているのだろうか。
「お兄ちゃん来るの?」
「佑二は会社だからねぇ」
「会社なんていつでも行けんじゃん」
「…」
「今夜でお婆ちゃんとは会えないかもしれないのに」
「ほら、早く。着替えて」
「…私よりお兄ちゃんに来て欲しいんだよ」
お母さんのお化粧をする後姿が少ししゅんと縮んだ。
「そんなことないわよ」
そして小さい声でそう言った。
おばあちゃんは男の子のほうが好きだ。昔から。可愛がられるのはいつも兄の方だった。それは母に対しても、実の子である叔母たちに対してもそうで、世話を焼くのは女なのに、何もしない男が好きなのだ。
なのに、こんな日に、病室に集まれるのは女ばかりだった。
「今夜が峠らしい」
自営業を営む父は、単身、名古屋にいる。
「お母さんと、由紀で見ててやってくれないか」
そう電話が来たのはたった一時間前の事だった。
「お父さんは来れるの?」
「今日中には東京に戻れそうにないんだ。仕事が終わるころには新幹線も終わってるから」
数センチ開いた窓から雨が入っている。私は急いで窓を閉め、クローゼットを開けて困ってしまった。こんな日は、何を着るべきなのだろう。九月の初めというのに、下着姿になると少しひんやりした。電話口のお父さんの声は事務的で冷たかったなと、ぼんやり思った。
病室に入ると幸子おばさんと清子おばさんがすでにベットのそばに座っていた。ベットの上のお婆ちゃんは眠っていた。かなり痩せていて、口をパクパクと動かしていた。
「ボケはそれ程でもないのよ」
幸子おばさんが言った。
「だから由紀ちゃんも分かると思うわよ」
枕の傍にはおじいちゃんの遺影があった。
病室の外の椅子でジュースを飲んでいると清子おばさんが横に座った。
「やーよね、あんな姿。私ももううんざりしちゃった」
自分の母親だものね、と清子おばさんは弱弱しく笑った。
「和雄はやっぱ来れない?」
「今名古屋なので」
「だよね。やんなっちゃうわー。母さん、和雄は?和雄は?って聞くのよ。こっちはふざけんなって思っちゃう。父さんの介護も母さんのも、私と幸姉でやって、和雄なんて顔見にすら来ないのに」
「お婆ちゃん、男の子のほうが好きだから…」
「あれ?由紀ちゃん気付いてるの?」
「うちだって、お兄ちゃんに来て欲しかったはずですもん」
「切ないわよね~」
清子おばさんが正面に向き直してふぅと息をついた。
「本当に切ない」
その独り言はとても重いものだった。
私が高校生の頃、お婆ちゃんはおじいちゃんを亡くした。火葬が済んで自宅に戻ったお婆ちゃんは、生きる希望を失ったようで、いつしか笑いもしなくなった。私は本当に心配になって、五十何通か、手紙を送った。返信を期待しないように、一方的に近況を送り続けた。一度返ってきたとき、「佑二君は元気ですか?」と来た。私は悲しくなって手紙を送るのをやめてしまった。その後、兄がほんの一時間顔を見せただけで、翌週には次第に元気になったというから、私はそれから心のどこかでお婆ちゃんに憎悪すら抱いた。冗談のようで、お婆ちゃんは本当にこういう人間なのだ。
お母さんとおばさん達は売店に買い物しに行き、私は病室で留守番を頼まれた。お婆ちゃんの細くてしわしわの腕をぼうっと見ていると、腕が少し動いた。
「由紀ちゃん…」
「あ、起きた?」
自然と少し素っ気ない態度になってしまった。お婆ちゃんは私の顔をまじまじと見てゆっくり手を伸ばした。どうしようもなくて両手で握ってあげると、あったかく笑った。
「あっ…えっと、ごめんね、お父さんもお兄ちゃんも仕事で…私でごめんなさい。あの、今、おばさんとお母さん、売店行ってて…」
お婆ちゃんはゆっくりうなずくと苦しそうに声を振り絞って言った。
「あのね…」
本当に顔色が悪かった。心臓がどくどく体内で鳴り響くのを感じた。
「由紀ちゃん、手紙嬉しかったの。…棺の中に、入れてね」
お婆ちゃんは反対側の枕元から輪ゴムで束ねられた手紙をとった。しわしわになっていた。
「本当に、ありがとう。由紀ちゃん」
お婆ちゃんが私の頭を撫でた。私は手紙を受け取ると、涙があふれて止まらなくなった。
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