色を失った瞳

色を失った瞳 Vol.2

「なんだろ」

受付が騒然とした。怒鳴り声を上げたのは五十前後の女だった。怒りなのか悲しみなのか、涙を目いっぱいにためて仁王立ちしている。足は小刻みに震えていた。そこに頭の禿げたひょろっと背の高い男が低姿勢で女の前にやってきた。

「塾長の小宮ですぅ~」

そこで女の目から遂に涙があふれた。

「うちの子知ってますか?橋本光毅。分かりますか?」

男は困った顔をして後ろをちらちら見る。受付の人間たちは目を合わせないように下を向いたままだ。

「あの子はここを信じて毎日睡眠を削って勉強したんです。高三から始めることになって、自業自得だからって半ば大学を諦めていたのに、あの子ここに通うようになって、本当に頑張ったんです。やっぱ諦めたくないよ、やってみるよって。なのに、なんでですか?なんで受からないんですか?ねぇ!ここに、夢進に言われるがままやったんですからね?なんで、なんでですか?」

「…クレーマーですね。毎年いるんです」

釘付けになって見ていた私達に、坂下さんは冷たく呟いた。

「お母様、あのですね、合否までは、こればかりは私達も保証できないんですよ。当日に合う問題がでるか、コンディションをいい状態に保てるか、それから運も関わってきますから。こればっかりは…」

男がそう説明して頭を下げた。

「そんなの知ってます…」

女が力なく座り込んだ。

「でも、あの子自殺しようとしたんですから」

そしてわあっと泣き出した。男はそれを聞いてそうだったんですねと呟き、さらに深々と頭を下げた。凄いものを見てしまったと思った。恐る恐る聡士を見ると、黙って俯いていた。女が立ち上がるまで、予備校内はしんと静まり返ったままだった。



「聡士。ちょっと考え直そう?」

私の少し先を歩いていた聡士は瞬時に振り返った。

「なんで?」

「あんなの見ちゃったらもう、行けないでしょ?ほら、もっと大手もあるし」

「大手だと友達いるもん」

「明和学習塾とかはいないんじゃない?」

「あそこは映像だろ?映像は寝ちゃうんだって」

聡士がますますしかめっ面をする。

「あんなの当てつけだよ。夢進が悪いわけじゃないって」

「そうなんだけどね」

「もう!俺はもう夢進がいいんだって!」

「…」

「迷ってらんないんだって」

聡士の後姿が不安そうだった。聡士なりにもう決めちゃって、腹を括りたいんだろうなと思った。私はそれ以上変えようとは言いづらくて、

「現役で必ず行かなくてもいいからね」

と小さい声で言った。聡士は反応しなかった。聞こえただろうか。私はすっかりしょんぼりした気持ちになってしまって、それからなにも喋れなかった。



その夜、リビングで缶ビールを飲んでいたあっくんの前に夢進ゼミナールで受け取った入塾申し込み一式をそっと置いた。息苦しかった胸が少し楽になった気がした。

「うん、塾ね」

「今日ね、聡士とよくないもの見ちゃって」

「何?」

「クレーマー。受験うまく行かなくて、息子さんが自殺しようとしちゃったかなんかで」

「…うーん。最近多いよな。最近というか、毎年三月四月はどうしてもそういう子でるもんな」

あっくんは見ていた新聞の小さな記事を指さした。そこには「高1男子重体。自殺未遂か。原因は高校受験の失敗」と書いてあった。

「私、現役にこだわらなくていいと思うの。あの子、時間がないから、凄く焦ってて。この塾だって、ほとんど営業文句だけで決めようとしているもんだし」

「ふーん。高三からの逆転合格、か」

あっくんは缶ビールをぐいっと飲み干す。

「聡士みたいな子は現役の方がいいと思う。やっぱり浪人はずっと心のどこかで劣等感を感じ続けるしな。それにあいつ、また早くサッカーやりたいだろ」

「でもさ、あの子勉強好きじゃないし…頑張りすぎたら壊れちゃわないかな」

「涼子。信じてやれって。あいつはやる男だ」

あっくんは昔から根拠のないことを力強く言って安心させようとする。何を根拠に、と反論する前にすーっといなくなる。ずるいと思いながらも、私はまた、その言葉でまんまと安心してしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?