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父のこと

2023年10月19日、父を亡くしました。

山内勝博、享年85歳。鹿児島県薩摩郡求名村出身、京都の大学を出て京浜地区の重電メーカーに勤め、主に総務・人事を担当していたようでした。父が実は小説家になりたかったことを初めて知ったのはいつのことだったか、よく覚えていません。

私が大学を卒業し家を出てから、親子関係が断絶していた時期もありました。父が70歳をすぎてから、突然何の縁もゆかりもない長野の佐久で一人暮らしをしたいと言い出したときは、本気で反対をしました。父は「晴釣雨読」をしたいんだと言い、私の反対を押して、佐久に移住して行きました。

一度だけ、千曲川のほとりの小さなアパートで暮らす父を訪ねたことがあります。近所にあった鯉の生け簀を見物して、鯉料理店で鯉を食べました。

80をすぎると雪国での一人暮らしも厳しくなったようで、連絡の回数が控えめに、しかし徐々に増えていきました。佐久を引き払う話も出ましたが、コロナ禍で先送りになっていました。車を運転できない父の「片道20分かけてゆっくり歩いて買い物に行っている。途中の公園で一休みするんだ。」との言葉でさすがにいたたまれなくなり、私の自宅の近く、徒歩5分のところにアパートを借りて、呼び寄せることにしました。

去年の6月、東京駅に父を迎え、その夜は東京ステーションホテルに一泊しました。ホテルマンが、私の誕生日祝いにかこつけて、東京駅前で2人並んだ写真を撮ってくれました。

不動産屋から鍵を受け取り、アパートの部屋に入ると、父は「この部屋、いいねぇ」と言いました。何もないがらんとした部屋の床に2人であぐらをかき、「父の日」の熨斗がついた鰻弁当を食べました。ほどなく佐久から届いた生活用品は古ぼけていて、ベッドとダイニングテーブルと椅子2脚とソファー、それから洗濯機とふとんを新調しました。

こうして、父の東京暮らしが始まりました。父は、「都民になったのは生まれて初めてだ。」といいました。近所の商店街をとても気に入ったようでした。

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父には懸案がありました。十二指腸に大きなポリープがあったのです。近所の病院に入院し、切除手術を受けました。同時に偶然見つかったごく初期の胃がんも切除できたのは幸運でした。

順調に退院し部屋に戻ってから1週間後、朝6時に私の携帯電話が鳴りました。父は、前日から下血があり動けないと言い、緊急再入院することになりました。私は父に「遠慮なんかしないで、すぐに連絡してよ」と言いました。この入院は、1ヶ月近く続きました。コロナ禍による面会禁止が緩和され、1度だけ面会ができました。前回の入院では、面会は1度も叶いませんでした。

退院後、毎週のように頻繁になった通院に付き添いました。入歯を作り直し、補聴器を調達し、年明けには白内障の手術をしました。10年以上使っていた眼鏡のフレームは手放せないと言い、レンズだけ新調しました。「カラダのパーツを全取っ替えしたねぇ」と2人で笑いました。

春からは父の体調も安定しているように見えました。図書館通いに加えて、週1回の高齢者向けジム通いも始めました。近所のカラオケ教室はちょっと気が合わず、カラオケボックスでの1人カラオケに変えたようでした。病院は、ひとりで行けるようになりました。「父さんは100歳コースだね」といいました。

ただ、父の歩みはとても遅くなっていました。今年の夏は猛暑が長く続き、家にこもって出かけることも少なくなっていたようでした。

私の用心が足りなかったかもしれません。

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父は私に、自然と遊ぶ楽しさを教えてくれた人でした。10月7日、思い立って父を近所の小川に連れて行き、かつて私が子どものころ父が私のためにしてくれたように、私が川の中に入り、たも網で「すくい」をやりました。父は、「少年時代に返ったようだ」と笑いました。

父の部屋に持ち込んだ水槽に、クチボソ2匹、メダカ4匹、ヨシノボリ2匹、スジエビ5匹、そして数え切れないミナミヌマエビが泳ぐことになりました。照明を点灯すると、水草の緑が輝いて見えました。2人で並んで眺めていると、父は「いいねぇ」といいました。特に大きなスジエビが気に入ったようでした。

父から毎日のように、水槽の様子を伝えるメールが届くようになりました。「ウグイを入れたいなぁ」と言うので、「それは来シーズンだね」と答えました。

10月11日、仕事帰りに父の部屋に寄り、座り机からダイニングテーブルに水槽を載せ替えました。父が食事をする目線の先に、ちょうど水槽が位置することになりました。部屋を出るときに、父は「ありがとう」といいました。

これが、私が父に会った最後の日になりました。

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10月19日、私は出張で海外にいました。ふだんはメールを出すと半日もしないうちに返事をくれていたのに、翌日になっても返事がなく、電話をしても応答がありません。その頃すでに、父は部屋の中でひとり、倒れていたのでした。

発見した家族から連絡を受け、予定を変更して帰国しました。棺に収まった父に対面したときに、初めて涙が、溢れるというのはこういうことをいうのだという体で溢れ出てきました。父の顔を、10秒と見ていられませんでした。

葬儀は少し先になり、半分日常に戻る妙な感じになりました。父の部屋を引き払う日はすぐに決められなかったのですが、ひと月先の11月26日に決めました。父が自炊で作ったおかずから順に、少しずつ部屋を片付け始めました。

11月2日、父の葬儀を行いました。マイナンバーカード作成のために私が撮った写真が、父の遺影になりました。棺の中の父は、とても穏やかな顔をしていました。私は、1年と少し前からのさまざまなことを思い返し、「僕のしたこと、よかったんだよね・・・?」と問いかけることしかできませんでした。

葬儀場からの帰り、荼毘に付された父とともに部屋に寄り、一緒に水槽を眺めました。

翌日、外出からの帰りの夜、東京駅丸の内口に降り立ちました。ステーションホテルが目に入ると、涙が溢れ、人目を憚らず号泣してしまいました。

父の部屋は、ごみを捨て、電化製品を引き取ってもらい、本を売り、いくつかの形見をもらい、徐々に生活臭がなくなっていきました。

11月23日勤労感謝の日の前夜、父の部屋に初めて泊まりました。父が残した日記や資料を読み、父が、小学2年生のときから小説家になりたいと思っていたことを知りました。そして、佐久で書き切り、新人賞に応募した小説の原稿が出てきました。佐久に移住したのは、実はこれが最大の目的だったようでした。この小説は、時間をかけて読ませてもらおうと心に決めました。

12月には、佐世保を訪れ、何十年ぶりかに父の兄(すなわち私の伯父)に会い、父の兄の子供たち(すなわち私の従兄弟たち)と食事をし、父の母(すなわち私の祖母)の墓参りをし、父が単身赴任をしていた博多に回ってふぐを食べます。果たせなかった父との約束を果たします。

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11月26日。清掃業者が日記も含めたすべての荷物を搬出し、父の部屋は、昨年6月と同じように何もないがらんとした部屋に戻りました。ひとり床に座り、鰻弁当に付いていた小さな造花2本、ずっと下駄箱の上においてあったのですが、それを手に、泣きました。

泣いていると、父が、「この部屋、いいねぇ」と言って入ってくるのを、確かに感じました。


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