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【日本への回帰】 橘孝三郎生誕百三十年・歿後五十年記念式典 展転社代表取締役 荒岩宏奨

3月26日、茨城県笠間市に鎮座する笠間稲荷神社で橘孝三郎生誕百三十年・歿後五十年記念式典が開催された。

 橘孝三郎は五・一五事件に参画した農本主義者として知られてゐる。

 孝三郎は明治26年3月18日、水戸市で生まれた。大正元年に第一高等学校文科乙類(哲学専攻)に入学したのだが、「自己に忠実に生きん」と中退して故郷の水戸に帰る。そして、常盤村の橘家の土地を一人で開墾を始めた。

 大正5年、母方の従妹である綿引ふくと結婚。

 大正6年には、水戸中学以来の親友・林正三が東京美術学校洋画科を卒業し、孝三郎と共に農業経営に参加。大正7年、その林正三が孝三郎の妹・うめと結婚した。この頃、孝三郎の次兄・徳次郎も農場に参加。大正8年頃には、孝三郎が経営する農場は、近隣の農民から「兄弟村」と呼ばれるやうになる。大正10年には孝三郎の妹・はやが東京音楽学校を卒業し、農場に居をかまへる。さらに林正三の弟・正五も水戸中学を卒業して農場に移り住む。その正五は孝三郎の妹・すゑと結婚。大正15年には長兄・鉄太郎、さらに母・もんも農場に参加。この頃、「兄弟村」がしばしば新聞や雑誌に取り上げられた。

 昭和4年、愛郷会を発足させ、愛郷会則と愛郷道歌をつくる。昭和5年には、『農村学(前篇)』の原稿を脱稿。昭和6年に自営的勤労学校愛郷塾を設立し、その塾長となる。この頃から国内改造運動へのコミットが深まり、井上日召、古賀清志、三上卓、山岸宏、中村義雄らと知り合ふ。

 昭和7年には血盟団事件が起こる。その直後、愛郷塾を訪れた古賀清志に決起を呼びかけられた孝三郎は参加を決意し、変電所襲撃を計画。5月15日には愛郷塾塾生が五・一五事件に加はった。孝三郎自身は5月12日に滿洲に旅立つために東京駅を出発。ハルビンの隠れ家で一千枚の原稿を書き、後に『皇道国家農本建国論』として建国社から刊行。この原稿を書き終へるとハルビン憲兵隊に自首し、東京へと護送された。

 全国的な減刑嘆願運動が起こったが、裁判では爆発物取締罰則違反、殺人及び殺人未遂で無期懲役の判決が出た。孝三郎は控訴せずに服役。三上卓の進言により、獄中で天皇論研究を始める。そして昭和15年の恩赦により減刑となり、同年10月に釈放された。

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