【政治学講座4】「憲法」について【体系的知識】
政治学講座(たぶん全十回くらい)
参考文献 中村菊男 著,政治学 改訂第3版,2010
第四回 「憲法」について
はじめに
今回は近代国家のほぼ全てが持つ【憲法】についての話。
現代の日本で護憲や改憲の議論が起こるのも、これが国家および政治にとって極めて重要であるからである。
今回は憲法とは何であるのか、どのような働きをしているのか、その特徴について見ていこう。
近代憲法と立憲主義
日本には聖徳太子が作ったとされる『十七条憲法』があり、これを以て”日本には古来から憲法があった”と主張する人もいる。
しかし、十七条憲法は憲法という名前ではあるが『アメリカ合衆国憲法』等のような「近代憲法」ではなく、統治をする者に規範を与えるという点では一致するものの混同すべきものではない。
近代的意味における「憲法(constitution)」とは、国家の根本組織法であり、それによって、その国がどのような国家であり、どのように政府が組織され、どのように運用されるか等を規定し、強制力を持って実際の統治規範となるものである。
例えば、『日本国憲法』では1~3章で国家のあり方、4~7章で政府の組織と運用について述べられている。
前回学んだように、本来、国家主権は国内において最高絶対の権力であり、原理的には国民の財産を没収して強制労働させたり、奴隷として他国に売ったり、迫害し絶滅させることさえ可能である。
実際、ナチスは支配領域のユダヤ人・ロマ・障害者などを弾圧し、死者だけで百数十万人もの被害者を出したといわれ、ポル・ポトは国民を虐殺して約600万人の人口を最終的に数万人まで減らそうとしていた。
このような強力無比の国家主権に法的な制限を与え、国民の生存と自由が保証され擁護される統治をもたらす事が近代憲法の主要な役割とされる。
「国家主権への法的な制限」とは具体的にどのようなものかというと、政府の行政は法律の定めに従って行われるが、この法律は憲法で許される範囲でのみ制定されるものであるため、法律を通して憲法が行政を拘束するわけである。
憲法の定めに従って法律が作られる事をもって憲法は法律の法律とも呼ばれる。
ちなみに、たまに”憲法は政府を縛るもので国民は関係ない”という主張を見るが、前述のように憲法は国民が従う法律を律するものであり、また日本国憲法の条文自体にも国民の義務が規定されている事、民主政国家においては政府は国民が運営し働かせるものである事から、憲法は”法的な最高規範”として、国民も含めた国家全てを統制しているといえる。
ここまでをまとめると、憲法とは”国家のあり方、政府の組織、政府の運用方法を規定する存在”である。
たまに主権と憲法制定権が同一視されるのはこれが由来で、憲法を決められるということは国家の全てを規定できるということになるからである。
まあ、この場合、憲法に従って運営されない国家(憲法の概念が出来る前の国家・憲法がない・制定中の国家等)には主権がない事になってしまうので、あらゆる主権と憲法制定権を同一視はできない。
こうした「憲法を制定し、憲法に従って政治を行う立場」を立憲主義(constitutionalism)という。
憲法を持たない国が立憲主義でないのは当然として、憲法を制定していても憲法に従って統治されていなければ立憲主義とはいえない。
またイギリスやスウェーデン、かつてのドイツ帝国など憲法によって君主の地位が明記されている政体を”立憲君主制”という。
立憲君主制の国の憲法は君主権力を完全に撤廃~ある程度以上制限する形式になっており、これは国家権力が歴史的に君主権力であったこと、立憲主義の発展がその制限によってもたらされたことに由来する。
一方、立憲君主制であっても政府首脳を王家一族が占めているようなケースでは実質的に法的な制限を回避している場合もあり、逆に憲法がなくても君主権力に制約がある場合、あるいは立憲君主制の内、君主権力が十分に制限されている政体を”制限君主制”という。
ちなみに「君主制の反対概念を民主制とする誤解」はよく見られるが、君主制の反対は共和制、つまり、王様が居るか居ないかの違いであり、立憲政治が行われる場合、君主制であっても民主政になり、立憲政治が行われなければ、共和制であっても非民主政になりうるといえる。
具体例として、英国は君主制だが民主政国家であり、中国や北朝鮮は君主のいない共和国だが専制独裁の非民主政国家である。
実際に立憲主義に対立するのは専制主義(autocracy)である。
専制は歴史用語としては統治者と統治を受ける国民が完全に分断されている政治体制を指し、古代王朝や絶対王政のような体制の事であるが、政治学的には、これらに加え、ジャコバン派の独裁政権や国民・労働者本位を掲げたナチスやソ連の一党独裁制等のような政治権力に対して法的な制限が全く無いか実質的に存在しない体制全般を指す言葉である。
ジャコバン派もナチスもソ連も憲法を持ち、議会があり、一応、選挙もやってはいたが、その権力を制限するものは実質存在せず、実際に人権を侵害する所業を繰り返していた。
ちなみに保守主義の父として知られるエドマンド・バークの定義では専制とは統治者と被治者の分断による必然的暴政を指す言葉である。
この場合、立憲主義の政府であろうと統治側の都合で国民を無視した統治をした場合は専制となる。
特にバークは思想家が人々を扇動することによって誰も責任を取らないのに思想家の意のままに統治を行わせる事を”新しい専制”と呼び、共和政体でも絶対主義と同質の暴政を生じるとして、フランス革命での惨劇を予測した。
この至近の例としてはビニール袋有料化が挙げられる。
これを推進していた議員は後で「自分が考えたのではない」と責任逃れし、かといって発案者がなんらかの責任を負ったというわけでもない。
統治者は往々にして統治に国民を合わせようとするが、真っ当に政治をするなら国民の方に統治を合わせなければならない。
国民の実態に沿う統治が行われなければ、それは必ず国民にとって生きづらさを生む統治になってしまうのである。
憲法の制定
憲法の制定方法はいくつかに分類できる。
まず、憲法がどうやって作られるかによる分類だがこれには3種類ある。
1.君主による発意
2.憲法制定会議
3.歴史的過程による形成
そして、憲法がいつ作られるかの分類としては次の3種に分けられる。
4.平時の制定
5.独立や革命
6.占領の結果
順に見ていこう
1.君主による発意
君主自ら憲法制定を主催するものである。
君主の命により起草され発布される憲法を欽定憲法と呼ぶ。
ドイツ帝国憲法やオーストリア帝国憲法、それらを手本とした大日本帝国憲法などが代表的である。
欽定憲法は基本的に君主の権限が強く、国民の自由への干渉・制限も強めである。
例えば、当時のドイツやオーストリアでは君主が内閣や議会の決定を覆したり拒否できる君主大権が定められており、特に君主大権の強いオーストリア帝国の統治は、かつての絶対王政に習い「新絶対主義」とまで呼ばれるほど抑圧的なものだった。
一方、これらを手本とした大日本帝国憲法は制定当時としては場違いなほど自由主義的(外国人に心配されるレベル)であり、天皇の国事行為に大臣の輔弼(ほひつ)を必須とするなど、独墺を手本にしているにも関わらず英国のような立憲君主の振る舞いを天皇に求めている。
これは起草者の伊藤博文が自ら著した明治憲法の解説書である『憲法義解』中で明かされているように、古来の天皇のあり方「しらす」統治に近づけ、将来的に英国のような立憲君主制の民主国家へ移行し、明治維新以来の”天皇親裁の建前”を脱却する事を想定して作られているためである。
天皇親裁とは天皇が自ら政治を行う事だが、明治政府で実際に統治をしていたのは主に薩長閥の政治家であり、これは新政府が掲げた建前である。
何故この建前が必要かといえば、維新以降、幾多の反乱を起こされている事から分かるように、明治政府は国民と信頼関係を築けておらず、その統治に反発される事が多かった。
そこで政府は水戸学や国学の隆盛により過去最高に高まっていた天皇の権威を借り、”政府の決定は天皇のご意思”という建前にする事によって、国民を政府の命令に服させようとしたわけである。
この建前には後世、天皇主権論などの妄説に勢いを与えたような負の側面もあるが、当時の政府としては、こうした建前が必要なくなるくらいに国民自身が近代国家の国民として成長する事を望んでいたのである。
他方の「しらす」とは、民を私有する統治「うしはく」の対義語である。
古来、天皇は国民を大御宝として尊び、国民の統合・幸福・繁栄を図る存在、ようは北米先住民における酋長や宗教的権威者の如き象徴的在り方を指す古語である。
実際、天皇の地位は古代豪族間の合議から生まれたという説もあり、大伴氏や蘇我氏といった古代豪族の興隆、藤原氏の摂関政治、平家から徳川までの武家政権、藩閥政治に政党政治、アメリカ様の傀儡と、有史以来、天皇が実質的な権力を振るった期間はほとんど無く、実質的に「君臨すれども統治せず」の状態にあった。
また明治憲法やその他の欽定憲法には、君主が政府の施策に対して責任を追わない「君主無答責の法理」があるが、これは本来、君主権力を弱める性質を持つ、要するに君主に責任が向かないよう政治に責任を持つ内閣や議会によって実際の統治が行われる事になるからである。
大日本帝国の場合、衆議院議員が選挙で選ばれるのはもちろん、内閣も大正末から衆議院第一党の党首が首相に就任する慣例が出来ており、大津事件で見せたように独立性の高い司法があり、ついでに軍部も国民が担っていた。
明治憲法の場合、条文上、政府の意思決定権は最終的に裁可を行う天皇が持っていることになるが、実際には天皇の裁可には大臣の輔弼、つまり責任を取ることになる大臣の了承が必須となり、議会も天皇の協賛といいつつ議決なしに天皇が立法を行うことはなく、天皇の名において裁判を行うとされる司法も完全に独立しており、天皇が大元帥のはずの軍部に至っては勝手に権益拡大を図ってくる。
このため、天皇は絶対権力の保持者という意味での「主権者(Sovereign)」ではあり得ない。
条文上、どれだけ強力に見せかけていても実際の運用としては政府の決定を正当化するための「名目上の権威」でしかなかったのであり、結局のところ、明治憲法体制は「天皇親裁の建前」の下、建前が必要なくとも国家が滞り無く運営できるまで日本人が近代国家の国民足り得る資質を涵養するために作られた体制であった。
大正デモクラシーなどもあり、この試みは半ばまで成功したかに思えたが、天皇主権論の台頭等で頓挫してしまった。
余談だが、戦後の憲法学を筆頭として「帝国憲法は天皇主権で戦後憲法は国民主権」という事になっているが、明治憲法が手本にしたドイツは”主権の存在箇所をごまかすための論”ともいわれる「国家法人説」・「国家主権論」が興隆した時期のドイツであり、明治憲法は国家のどこに主権が存するかを明示していない。
これは日本国憲法が「国民主権」であるという点を強調するために、あえて妄説の天皇主権論を持ち出して対比させたものといえる。
さらにいえば、天皇は君主大権として拒否権を持つとされるが、それを実際に行使した例は歴代一件も無く、憲法発布以降、天皇は直接的な政治意見の表明をできるだけ避ける(質問はする)ようにし、実権を振るわない「立憲君主」として振る舞おうとしていたのである。
よって、明治憲法は、裁可を行う権限を有するを以て”天皇主権”であるともいえるが、裁可に必須とされる輔弼は大臣など国民の側の主導によって行われており、実際の政治・国家の営みの担い手である事を以て”国民主権”であるということもでき、その主権の所在についてはどこまでも曖昧なのである。
「天皇機関説」で有名な美濃部達吉もそんな感じの解説をしている。
つまり、前回の主権の区別に当てはめて考えた場合、例え、法律上の主権が天皇にあったとしても、実質的な主権は統治に携わる国民の側にあったといえる。
また、さらに余談になるが、大日本帝国憲法にはいくつか欠陥がある。
一つは憲法上、国民の自由・基本的人権は尊重することになっていたが、その尊重の内容が制定や改廃の容易な”法律”で定められることになっていたために法律を変えれば人権を侵害できるようになっていたこと。
明治憲法下では本来、内地外地を問わず拷問や手続きを欠いた捜査が禁じられていたにも関わらず、特別高等警察が予備拘禁でまだ犯罪をしていない者を逮捕したり頻繁に拷問を行っていたのはこのあたりの欠陥による。
起草当時の想定では、時代が進むほど自由化や国民の権利拡大が進むと考えられていたのであろうが、実際は時勢により逆転してしまった。
2つ目に、制定当時はまだ国際的に国家無答責の法理がまかり通っていたため、国家賠償請求ができなかったのも欠陥の一つといえる。
ただアメリカでも国家賠償が出来るようになったのは第二次大戦後なので、明治憲法だけが劣っているというわけではない。
3つ目、明治憲法において構造的に最も大きな欠陥が文民統制になっていない点である。
文民統制とは即ち、大統領・内閣・議会等の政治機関(文民)によって軍隊が統制され、軍部が勝手に振る舞わないようにする制度である。
明治憲法では天皇を輔弼・協賛するという建前から、内閣も議会も司法も軍部もそれぞれに対して対等の関係にあり、各機関が相互に融通し協力し合う事によって初めて政府が統一的に運営できるという構造になっていた。
これはつまり、内閣の決定がなくとも勝手に軍隊が攻めに行ったり、例え、内閣が戦火の不拡大を決めたとしても軍部が戦火を拡大するのを止める権限を憲法の構造上持っていないということである。
要は内閣や議会が軍隊を止める判断をしても、軍隊がそれを了承してくれなければ止めようがないわけで、憲法上、軍部を統制できるのは天皇しかいないが、天皇は実際には権力を振るわないので軍部が憲法上フリーハンド状態になってしまうわけである。
ただし、実際には軍隊は予算がないと動けないため、実態としては内閣の予算編成と議会の予算承認による統制がなされていた。
これらの欠陥に対し、日本人は”欽定憲法だから駄目”という感想を持ちがちだが、特に3つ目の欠陥が一般的な欽定憲法では考えられない”君主権力の発揮され無さ”に基づくものであり、法学の発展に起因する2つ目はともかく、1・3つ目は役人の自制や内閣議会による統制が働いていれば回避できたものである。
実際には憲法の内容と運用が重要なのである。
例えば、ワイマール憲法は欽定憲法ではなく、一般的な近代憲法であるはずなのにナチス政権を生み出す事になった。
2.憲法制定会議によるもの
欽定憲法では君主によって憲法制定が主催されたが、君主によらず議会中心で憲法が制定される場合、また新しい国家が作られる、憲法を大きく改正・作り直す際には憲法制定会議が行われる。
欽定憲法は少数の起草者によって制定される場合も多いが、憲法制定会議によって制定される場合は議会で討議され多く人々が関与する点が特徴になり、「民定憲法」とも呼ばれる。
憲法制定会議の例としては、世界初の近代成文憲法であるアメリカ合衆国憲法は、1787年、フィラデルフィアで行われた憲法会議によって起草された。
主権在民・連邦主義・三権分立を骨子としており、特に権力の分立は後世すべての近代憲法の原型になったともいわれる。
アメリカ合衆国憲法ははじめ七章で作られたが、内容の増補・条文の追加・削除など数々の修正を重ねて今日のものになっている。
フランスでも憲法制定国民議会が1789年に成立し、フランス初の憲法『1791年憲法』が起草され発布された。
この憲法では前文に有名な「人権宣言」が書かれており、史上初めて国民の基本的人権を保証する成文憲法である。
これはアメリカで権利章典が実施されるのより3ヶ月早い。
権利章典とは、政教分離、信教・言論出版の自由、集会・結社の自由など基本的人権基本的人権を保証する内容を合衆国憲法に追加する修正第1条から第10条である。
国民の権利として”人民の武装権”が定められているのはさすがアメリカといった所。
これは合衆国政府が国民を虐げる専制政府になった場合、国民自らが武装して政府を打倒する権利を持つという事で、今でも全米ライフル協会が銃規制に反対する根拠として挙げているのを見ることが出来る。
なぜアメリカでは初めから権利章典が作られず後から追加されたかといえば、発布当時は憲法単体でも国民の権利が十分に保証されると考えられていたからである。
後から連邦政府の権利乱用によって国民の権利侵害の恐れがあるという批判が起こったため権利章典が追加されたわけだが、実際、明治憲法では人権の保証を企図していたにも関わらず、構造的欠陥から人権侵害が発生したため、この懸念は正しいものといえる。
3.歴史的過程による形成
長い年月を経る歴史的過程から憲法相当のものが自然に形成されたもの。
イギリスの憲法がこの典型的な例であり、イギリスには単一の憲法典として成文化された憲法はないが、イギリス三大法典と呼ばれるマグナカルタ・権利の請願(Petition of Right)・権利章典を始めとして、議会の決議や法律、裁判所の判例、条約、政治的慣習など、国家の営みの歴史的な積み重ねによって国家の性格が規定されている。
この性質上、日常的な議会の立法・法改正、判例の更新等によって憲法が常に改正され続けていることになるが、議会主権・立憲君主制・議院内閣制・人権保障などといった伝統的に憲法を構成するとされる原則的部分は一貫して維持されている。
前述の2種は誰かが作ったものだが、歴史的過程によって形成される場合には明確な起草者が存在せず、時代時代の人々によって少しずつ培われてたものといえる。
この類の憲法を「不文憲法」といい、詳しくは次の章で解説する。
ちなみに、歴史的に形成されるという性質上、稀に見られる「日本も不文憲法にしたらいい」という主張は、日本の近代法制度が明治に始まって程なく成文憲法を頂いてきた事から今すぐ不文憲法に移行することは不可能であり、また一から不文憲法を作ろうとした場合も憲法が培われるまでの長い年月の間、無憲法状態になってしまうため無理筋である。
以下は憲法制定がどのタイミングで行われるかで分類したものになる。
4.平時の制定
特に荒事を伴わない憲法制定。
憲法制定の機運が高まったり必要性が生じた結果、憲法が制定される。
たとえば、大日本帝国憲法やオーストラリア憲法などはこれで、日本の場合は自由民権運動で議会開設や憲法制定運動が高まった結果、革命やクーデターのような大きな混乱を伴わずに制定されている。
またイギリスのような不文憲法は「歴史的蓄積」という性質上、なにかのきっかけで急にできるということがないため、これ以外の経緯では成立し得ない。
5.独立や革命に伴う制定
独立や革命が成立した後、新たにできた政府によって行われる憲法制定。
革命とは旧来の政治体制が覆され根本的な変化を生じる事を意味し、独立も以前の政治体制から脱して新たな政治体制に移行する点で類似している。
先のアメリカ合衆国憲法や1791年憲法もアメリカ独立やフランス革命に伴って制定されたものである。
革命といえば共産革命であるが、旧ソ連の憲法はロシア革命後、1918年のソビエトロシア憲法を初めとして、ソビエト連邦形成時の1924年憲法、経済的な権利の付与に加え共産党の支配を明確化した1935年憲法(スターリン憲法)、1977年憲法(ブレジネフ憲法)と多くの変遷を辿った。
中国共産党では第二次国共内戦で大勢を決した1949年9月、北京で中国人民政治協商会議が開催され「中国人民政治協商会議共同綱領」が公布、10月1日には中華人民共和国が成立した。
中国人民政治協商会議共同綱領は憲法が制定されるまでの仮の憲法であり、1954年9月の中華人民共和国第一期全国人民代表大会第一次会議においてソ連のスターリン憲法の影響を受けた『中華人民共和国憲法』が採択された。
しかし、中ソ対立や文化大革命の影響で何度も改廃され、現在の憲法は1982年に制定されたものである。
これらの憲法は外見上では西側で採用された多くの憲法と類似しており、言論の自由、結社の自由、信教の自由などといった政治的経済的社会的権利が謳われ、議会は選挙で選出される(中国の全国人民代表大会は間接選挙)とされている。
以上のように、このタイプで制定された憲法の多くは民定憲法である。
ただし、中国やソ連の憲法は後述する社会主義憲法であり、実際には共産党による指導的役割の規定によって完全な一党独裁制となっており、党の意向に背く者が代表に選ばれないのは当然として、その他、あらゆる権利は党の意向に反しない範囲でのみ認められるものとなっており、その意向は専制独裁と腐敗により常に恣意的で独善的である。
例えば、ソ連は諸民族の平等を掲げていたが実際にはホロドモールや強制移住によって少数民族を弾圧していたりするし、言論や信仰の自由を謳いつつ普通に言論封鎖や宗教弾圧をしている。
恣意性の顕著な例として、ソ連は成立後しばらくは同性愛者を擁護していたが、同性愛者が反政府的な動きをしているという噂がたった途端、処刑を含む強烈な弾圧が行われた。
このように”民定憲法だから良い”とも一概にはいえない。
この他、タイ王国では軍事クーデターにより王に憲法制定が迫られた結果として憲法が制定されている。
6.占領の結果
外国軍隊の全面的占領の結果、新しい憲法ができる場合。
第二次大戦後の東欧諸国(ポーランドなど)や日本の現行憲法がこれにあたる。
昭和二十年、ポツダム宣言を受諾した日本は連合軍に降伏し、GHQによる占領が始まった(ちなみに、アメリカは占領初手で降伏条件を反故にし、政府解体・公用語英語化を試みたが、なんとか免れた)。
1946年、GHQが起草した新憲法が明治憲法第七十三条の改正手続きにより帝国議会の審議を経て1947年5月3日に施行された。
この憲法は形式的には明治憲法の規定により帝国議会によって改正された事になっているが、その条文はGHQにとって納得のいくものになるまで何度も書き直させられたものであり、議会での審議も採決も占領軍の監視下で行われたもので、実質的に占領軍による新憲法の制定であった。
たまに「日本人が書いたから正当」という主張があるが、人質を取られ無理やり他人の意のままに書かされた文書というのは大抵の国で民法・刑法上無効になるようなものである。
また法理論上、欽定による帝国憲法の条項に基づいた改正によって国民主権の立場を明示した新憲法ができるというのは絶対にありえないため、実際には日本人が作った明治憲法は敗戦によって廃棄され、GHQが作らせたものに置き換えられたといえる。
・注:ここからしばらくは”完全に私見”である。
この憲法では国民の基本的人権を保証しているものの、過去の国会答弁でも述べられていた通り、憲法9条で戦力の不保持を定めた事によって自衛権はあっても行使できないとされていた。
つまり、例え侵略を受けた場合でも、戦争になれば日本人は生存権を含むあらゆる権利を喪失するという内容であり、実のところ、憲法が保証する基本的人権というのは国内だけの話で、日本人の生殺与奪の権利は実質的に他国に委ねられている。
これにより、日本人は他国の容認があってはじめて生存が許される状態となるため、他国の要求には一方的に従属せざるを得ないという仕組みであり、これは占領初期(1947年まで)のGHQが目指していた”日本を物質的にも精神的にも無力化し、国民が自発的に他国に従属し奉仕するよう作り変える”ための憲法制定であった。
今では解釈改憲により自衛のための戦力保持と自衛権の行使は認められているが、これも東西冷戦によってアメリカの占領政策が”日本を復興させ東側に対する極東の抑えにする”という風に方針転換したためであった。
今日、日本は自衛戦力を持ち自衛権を行使できるといっても、所詮はアメリカの覇権戦略上、配備されているに過ぎず、自衛隊の編成や兵站面を見れば、今でもアメリカの庇護を失えば全日本人の自由と生存権が奪われる事には変わりがない事がわかる。
具体的な例はいくつかあるが、特に顕著なのは、自衛隊は全力で戦えば備蓄弾薬が1週間持たないという事実。
これは自衛隊がアメリカの救援まで持ちこたえる事だけを想定しているためだが、もしアメリカ様が日本救援と日本失陥による得失を天秤にかけ後者を選択した場合、日本はたちまちなす術が無くなってしまう。
アメリカの庇護に依存している以上、当然、アメリカに反抗することも不可能である。もし、日本国民が選挙で反米政権を樹立したとしても、首都圏に基地を置くアメリカは実力でそれを排除することが出来る。
このため、日本政府はこれまで対米追従を続けてきたし、日本国憲法がある以上は、これからもアメリカ様に絶対服従せざるを得ないのである。
美濃部達吉が反対したのも当然であろう。
以上のように、戦後日本における法律上の主権者は日本国民であるが、実質上の主権者はアメリカ様といえる。
そして、この事実は、日本の政治体制が古代王朝の如き統治者と被治者の分断状態にある事を意味し、日本政府は国民を顧みずアメリカ様のご機嫌さえ取ってさえいればよいという専制政治に陥ることを意味している。
ちなみに、例え、憲法九条が改正されても、戦後日本の在り方自体が変わらなければ、アメリカ様の尖兵として、より直接的に日本人が消費されるようになるだけだろう。
・私見終わり
他方、同じく連合軍の占領下に置かれた西ドイツの『ドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)』は第146条で終結規定が定められており、連合軍占領下での臨時的過渡的憲法である事が明記されている点で日本国憲法と対比される。
こちらは1949年制定と、アメリカ本国の意向が東西冷戦に向け占領による無力化から復興による東側への備えへと変化した後の憲法である事が要因かもしれない。
ちなみにフランス憲法では第九十四条において外国軍隊の国土占領下における憲法の改正を禁止している。
憲法の種類
憲法もいくらかの種類に分類できるが、重要な区別として、まず成文憲法・不文憲法がある。
成文憲法(written constitution)
成文憲法は今まで見てきたアメリカ合衆国憲法や大日本帝国憲法のように起草者が起草当時の社会的勢力(市民・君主・革命家等)や政治思潮(民主主義・共産主義等)を考慮して一定の基本的な原理に基づいて審議した結果作った憲法。
成文憲法は憲法典として普通の法律とは別個に条文化され形式的に整備されており、その改正変更も普通の法律の改廃手続きよりも厳格で特別な手続きによって行われる。
このため、内容が明確であるが、その修正が容易でないために新しい状況に対応することが難しいという特徴がある。
不文憲法(unwritten constitution)
イギリスの憲法のように政治上の慣例や判決、制定法などが総体として憲法の機能を果たすものであり、成文憲法と違い憲法典は編まれず、一個の明白な文章とはなっていない。
一方の不文憲法はイギリスの憲法のように政治上の慣例や判決、制定法などが総体として憲法の機能を果たすものであり、成文憲法と違い一個の明白な文章としての憲法典は編まれず、一般の法律と同程度の難易度成文部分の変更できるため新しい状況に柔軟に対応できる。
ちなみに「constitution」には憲法以外に「国制」という訳語もある。
これは憲法の”国を統治する基本原則が総体として構成されたもの”という憲法の概念を指す意味で用いられる。
成文の憲法を「constitution law」と呼ぶが、これも「憲法律」と訳される場合がある。不文憲法の成文部分も「constitution law」ということになる。
イギリス以外に不文憲法とされる国にはイスラエル・ニュージーランド・サンマリノなどがある。
成文憲法・不文憲法と分類されてはいるが、全ての憲法は条文化された成文部分とそれに対する解釈、運用慣習といった不文の部分の両方から構成されており、成文憲法でも習慣や慣例や裁判所の解釈によって修正されたり補われたりするし、不文憲法は各年代を通じて分散した多くの成文的要素から成り立っている。
例えば、成文憲法である日本国憲法でも、本来、憲法9条で戦力の不保持を定めたために”自衛権はあっても行使できない”とされていたにも関わらず、冷戦期に解釈改憲で警察予備隊や自衛隊といった”自衛のための戦力”を保持し、最近では”集団的自衛権の行使さえ可能”とされているのはこれである。
よって成文憲法と不文憲法の違いは”成文部分と不文部分のどちらを主とするかの程度の違い”という事ができる。
硬性憲法・軟性憲法
一般に法律と同様の手続で改正できる憲法を軟性憲法といい、憲法の改正手続に一般の法律改正手続よりも厳格な要件が付されているものを硬性憲法という。
イギリスの不文憲法は軟性憲法であり、アメリカの憲法は硬性憲法、最近まで憲法改正に必須の制度が存在すらしなかった日本国憲法もバリバリの硬性憲法である。
これはジェームズ・ブライスによる分類といわれるが、ブライスは軟性憲法の特徴をその弾力性にあるとしている。
つまり、ブライスの考えでは改正難度が法律より上でも、時勢に応じて柔軟に憲法を変えられるものは軟性憲法ということになる。
その他の種類
最後にマイナーな分類をいくつか。
協約憲法は君主主権と国民の合意または契約によって制定される憲法。
君主主権という思想と国民主権という思想の妥協に基づくもので、1830年のフランス憲法が代表例。
条約憲法は連邦形成時に、複数国家の合意によって制定される憲法。
アメリカ合衆国憲法やドイツ帝国憲法が典型例。
資本主義憲法と社会主義憲法という分類もあるが、この資本主義憲法(ブルジョア憲法)というのは権力の分立や人権保証などを特徴とする一般的な近代憲法のことである。
一方の社会主義憲法は、権力集中・制限された権利・私有財産の否定(生産手段の公有)といった特徴を持つ先に述べた中国や旧ソ連のような全体主義的社会主義(ソ連型社会主義)特有の憲法である。
これらの国の憲法は一般的な憲法と違い、統治者に全権力を持たせ国家国民を一つの目的に従事させるための構成となっており、国民の感情や幸福などは一顧だにされない。
社会主義の理想を実現する事が第一で、国民はそのための資源として管理運用されるのであり、その根底に”理想のためにはどのような手段・犠牲も許される”というマルクス・レーニン主義特有の信仰がある。
ジョン・アクトンの言葉として有名な「権力は必ず腐敗する」だが、モンテスキューもルソーも同じようなことを言っており、盤石な権力を持った統治者が私利私欲に走って身勝手に国民を虐げる例というのは歴史上多くの実証が在る。
つまるところ、このタイプの憲法を持つ国は専制独裁と政治腐敗、それによる人権蹂躙が約束された体制であるといえる。
ちなみに同じ社会主義でも社民主義など非全体主義的な社会主義国家の憲法はこれに当てはまらない場合が多い。
権力の分立(三権分立主義)
社会主義憲法以外の憲法では国家の権力が一箇所に集中しないよう分散することとしている。
以前に紹介したモンテスキューの三権分立がそれで、立憲主義の政府は立法・行政・司法の三機能をそれぞれ分立させ権力を分散させている。
例えば、アメリカ合衆国憲法第一章第一条「この憲法によって付与されるすべての立法権は、上院と下院で構成される合衆国連邦議会に属する」とあり、第二章第一条第一項に「執行権(行政権の事)は、アメリカ合衆国大統領に属する」とあり、第三章第一条に「合衆国の司法権は、1 つの最高裁判所、および連邦議会が随時制定し設立する下位裁判所に属する」と規定されている。
このように、立法・行政・司法の三機能を分立する事によって、全権力が一手に集中することによって起こる専制・圧政から国民の自由を保護し権利を擁護しようとしているわけである。
また三権に「考試(人事)・監察」を加えた台湾の五権分立のように、三権以上に分立されている場合もある。
こうした国家権力をいくつかの機関で分担し、権限を分けようという考えの起源は古代ギリシャの混合政体までさかのぼるといわれるが、これは王と貴族と民衆間の分立といった垂直的権力分立であり、近代憲法における水平的な権力分立とは趣が異なる。
ちなみに、先に述べたソ連等の憲法で権力集中が志向されているのは「プロレタリア独裁(民主集中制)なので専制・圧政にはならない」というマルクス主義的な教義に基づくものであり、ようは「シリアルキラーは資本主義の病理なのでソ連には存在しない」と主張してチカチーロに凶行を続けさせたのと同じである。
一般に分立される三権の内、特に立法は重要であり、政府が国家を統合し統治しようとする場合、その主たる手段は法律で、法律は憲法に基づいて制定され、執行され、解釈され、強制されるものである。
立法権はこの法律と憲法の制定改廃に関わる機能である。
代議制をとる民主政国家においては大抵、議会に代表として選出された議員によって立法が行われるが、この機能は究極的に選挙を通じて全国民に帰属するものである。
こうした議会や選挙の制度については、また今度やる。
さて、アメリカの憲法の特色は明確に三権分立を踏襲しているところにあり、先に述べたとおり、この三権分立の考え方はモンテスキューの示唆に基づくものである。
モンテスキューは1730年頃、イギリスではじめて内閣が統治をした時期に渡英し、イギリスにおける自由の精神に感銘を受けたという。
そして、これをルイ14世時代のフランス絶対王政と対比してイギリスの自由は権力が集中されず分立している結果であると分析した。
彼が著した『法の精神』にはこう書かれている。
ただし、モンテスキューが当時のイギリスにおいて三権が分立していると見たのは実は誤りであって、イギリスの憲法の特色は立法権(議会)と行政権(内閣)が密接に結びついている点にある。
実のところ三権分立はあくまで原則論であって、かならずしも三権を厳密に分立しなければならない訳では無い。
権力の分散と統一的な権力の運用が両立されることが肝要である。
以下の図は現行憲法における三権分立の図であるが、三権が任命や審査などの権利を通じて相互に影響を与え責任を持つ関係になっており、各部門は多少なりとも相互に依存し合っている。
今回のまとめ
今回は憲法について学んだ。
憲法は国家の有り様を規定するもので、政府の組織構造や運用方法などが記されている。
中でも近代憲法の主要な目的は政府権力が国民を害さないようコントロールすることである。
憲法に従って権力を制限する立場を立憲主義といい、立憲主義の政体には立憲君主制などがある。
逆に主権に対して法的な制限が全く無いか実質的に存在しない体制を専制主義と呼ぶ。
憲法制定の経緯には、君主による欽定、憲法制定会議による制定、長期間の蓄積で自然に形成されるもの、そして、平時の制定、革命や独立に伴う制定、占領による強要といった様々なものがあった。
憲法の種類は主に一個の憲法典に編纂されているか否か・成文部分が主か否かで分ける成文・不文憲法、改正の難易度で分ける硬性・軟性憲法の二種、それ以外にもマイナーな区別がいくつかあった。
社会主義憲法は近代憲法に標準装備の権力コントロール機能を有さないヤベエやつだった。
逆に民主国家の憲法では専制に陥るのを防ぐため、三権分立のように機能毎に権力を分散しており、国によって三権以上に分権している場合もある。
ただし、政府運営のために三権は多少なりとも相互に関係し合っている。
次回は「民主政」と「独裁」について
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